見たことのない風景 A landscape that I have not seen

 昨日25年ぶりに青梅の先の, 御嶽に行った。息子が四歳の時私はガンになり、幸い三週間の入院手術で治ったのだが、それまでがんじがらめで全く自由のなかった生活だったので、信濃町にある慶応病院への通院も楽しく、早く診察が終わったある日、思い切って中央線を乗り継ぎ、御嶽まで行ったのは紅葉が一番の盛りの時だった。

 川にかかる橋の上から見た一面の紅葉は見事で空に昇らんばかり、今まで見たことがないような光景だった。その時の圧倒感はいまだ忘れられず, 感覚の再現をしたくて、また来てみたのだ。

  違った。25年たったのだもの、仕方ない。こちらも確実に年を取り、川に降りる道で転び尾てい骨を打つわ、ケーブルカーに乗り御嶽山に上ったものの、御嶽神社まで行く道のりにへたばり最後本当に必死でようようたどり着いた有様で、その体力の欠落に唖然としているのだから。

 だが自分の状態が体力のぎりぎりで息も絶え絶えになって見た風景が、まさしく見たことがない景色だった。

 

 25年前は子供のこと、家業のこと、舅姑のことで、いっぱい一杯だったが、今はすべて終わり、自分のことだけ考えている。

曽野綾子が人間で大切なのは本質、精神であると最晩年になって、いっている。もう、ほんとにいいじゃないか、本質だけでと思う。

 行きかえりの電車の中でカズオ・イシグロの本を原文と日本語訳と交互に読んだ。だいぶリズムが分かってきて、わからない単語は相変わらず多いが、原文の方を読んでいた時ある文章に胸が熱くなった。英語日本語云々出なく、主人公のお父さんの気概が、品格が、本質が、そこに存在していたのだ。味わったことのない感覚だった。

 みんな自分の思いを伝えたくて、いろんな表現手段をとるのだと思う。作家、画家、俳優、ダンサー・・・そこまでいかない人も何かを表わしたい気持ちを持っている。私は着物で。

行き詰って、苦しい時、つらい時はあえて高い硬い壁を作り、乗り越えるための具体的な努力をし続けよう。その時に見えるかもしれない光景を思い描きながら。

 

今日の着付けのお仕事は私にとって難しいものになりそうだ。技術を尽くし心を尽くし、最善を尽くしたい。

 

 25years ago, when my son was 5 years old, I got cancer and I was hospterised 3 weeks.I have been struggling with my mother- in-low for a long time. I could not tolerate severe detention and bullying ,so fortunatelly I recovered my mental and physical health in hospitalized life.

 

After leaving the hospital, I went to see autumn leaves alone in the suburbs.  I saw the the landscape of autumn leaves there I have never seen before. I was overwhelmed by the scenery ,my heart was comforted  and returned to the original life. It has been 25years since then.

  I came to the same place after a long absence a few days ago. It was not the same scenery as at that tme.

But I was able to taste the same feelings and sorrow.

 It may be difficult to reproduce what you memorized.But memorizing remains in me forever.