歌舞伎 能 茶道 着物

昨日久しぶりに歌舞伎を見に行きました。愛之助さんの「実盛物語」松緑さんの「土蜘蛛」でしたが、入り口のところに紀香さんが濃いえんじ色の着物で挨拶してらして、綺麗でした。

花道のそばのいいお席をいただき、ほんとに間近で歌舞伎の衣装を見ることが出来、娘がよく言うことですがいろいろ参考になります。

今回一番驚いたのは、「土蜘蛛」の時花道から気配を消して出てきた僧侶に扮した土蜘蛛の化身の松緑さんの妖気、そばを通った時冷たい空気を感じさせるような、芸の力でした。

能形式の「土蜘蛛」は何度も見てますし、田舎育ちの私の父はなぜか何度も歌舞伎に小さいも私たちを連れて行ってくれたので昔の役者さんのこともよく覚えています。今の松緑さんも隈取をすると先々代の松緑さんによく似ているなあとか、年寄りじみた感慨にふけるのも楽しいものです。

イスラエルのタリアママに着てもらいたかった着物を着ていきました。斬新な加賀友禅なのですが、私でなくどなたかに着ていただきたくて、モデル探しています。(長身の外国人の方、是非!)

 着物着て、歌舞伎や能を見に行くこと。母やおじおばがお茶や謡習っていたり、能の発表会の着付けに行ったり、日本の伝統文化に何となくなじんでいたこと、そして今猛烈にしごかれているお茶の稽古、掛け軸の読み方、掛け方、道具の由来、知らないことばかりをたたきこまれていますが、そのなかに、日本人というアイデンティティの根っ子があるのではないかという気がしています。すべてをマスターするには遅すぎたとは思うのですが、知らないでいたことが、教えられないできたことがなんとたくさんあることか。

若い時自分が何者であるかが全く分からずもがいていたことを思い出しました。生きていることに何のきっかけもとっかかりもなく、居場所確保のため結婚して子育てして四十年近く、今やっと自分の進み方がわかってきました。中学の時習った漢文「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずと為す。これ知る為り」たぶんこれが私のすべてです。15歳の時も63歳の今もこのスタンスはかわりません。

 おこがましいにも程があるとは思いますが、ノーベル賞受賞者のカズオ・イシグロ氏は同い年です。5歳で日本を離れその後ずっとイギリスで暮らす彼は、日本の記憶を失うまいと小説を書きだしました。日本の佇まい、匂い、体感、感性、人間性、品格。アイデンティティとは、その人の中からよみがえる記憶なのでしょうか。

Kabuki, Nou, chadou, Kimono.

How can foreigners understand these cultures that have become less familiar to japanese people?

My father didn,t have the oportunity to touch traditional culture because he grew up in the countryside, but when I was a child, he often took me to see the Kabuki.

Meanwhile my mother grew up in a house familiar with Noh and the tea ceremony.

Noh is said to be accumulation of "Japanese memories" . Will it be possible to disseminate the wisdom of Noh that the minds of

ruler of the Sengoku period have calmed down now from Japan to the world.

Among the Japanese traditional arts in which our hearts are shaken, such as impression and nostalgia, is there the origin of Japanese memory?