エッジ・オブ・シルクロード

世界における日本の文化とは何なんだろうと最近よく考える。お茶点てたり着物着ていただいたり、お寺へ行って彫刻とか見たりしているが、最近それが日本文化なのかしらと疑問に思いながら説明している時がある。

 古来。文化は侵略をうけると否定される運命にあったが、日本というエッジには大陸を通って様々な文化が集積し、それ以前の文化を否定しない歴史をたどったという。しかも日本に集積した文化は”発酵”し独自に洗練され、神事や祭事を越えて能、狂言のように芸術的昇華を遂げた。

 野村萬斎さんが東京オリンピックに向けての全体のコンセプトをたてるなら、「エッジ・オブ・シルクロード」。シルクロードの端っこの日本はとんがった先鋭的な位置にいるのだそうだ。そして萬斎さんは伝統芸能の内部の人間として己を知りながら、世界に対してどのように自己発信すべきか考え続けている先鋭な人だ。ずっと国内外でマクベスを演じているが、シェークスピア劇にはまったうえで、能・狂言の手法で何ができるかという手法を使っている。

 能の創始者世阿弥はただ芸ができるだけでなく、古今東西の故事来歴も思想も文学も、あらゆる知識が繰り出せたし、シェイクスピアも口承されてきた物語やことわざをその戯曲の中に注ぎ込んでいたから、彼の芝居には集団的な英知がいったん凝縮されて、そこからまた広がっていった。

 最近イギリスのゲストが多いこともあってイギリス紀行の番組をよく見るが、スコットランドの荒涼とした風景を見ていると、小さいころ読んだリア王とか嵐が丘とかを思い出す。戯曲をきちんと読み込んだ訳ではないんだけど、リア王が彷徨った荒野の残像、キャサリンとヒースクリフの息遣い、そんなものがよみがえってくる。実物のイギリス人スコットランド人と相対して付き合っていると、想像だけかもしれないがいろいろなものがより膨らんでくる気がする。

 能の根本は供養だという。その時代で最も弱い人間、非業の最期を遂げたもの、深く傷つけられたもの、周囲に排除されたものをもう一回、再生してよみがえらせ引き上げるのだ。世阿弥の優しさ、素朴な世界、敗者に対する惻隠の情、供養の気持ち、鎮魂、復興、再生、癒し。

萬斎さんはずっと好きで、若い頃から見ているが、頭がいいし少し斜に構えたとこあって伝統芸能を継がなければならない立場は大変だろうなと思っていたが、歳を重ね、今回のようにオリンピックの式典の総括者になった時、先鋭的でとんがってて、そしていろんな伝統も兼ね備えているということが強みとなり、頼りになるのだろう。

 

 いろいろなものを対外的にアピールするには、世界を知り、自分の特性を見極めることが大事だという。内と外からの目線で己の座標軸を明確にした上で、文化的特質をどう打ち出すか。日本人のアイデンティティーにまで踏み込み、日本はどういう国か考え、どこに本質を極め、決断し、どう実行するか。

エッジ・オブ・シルクロードが日本ならば、エッジ・オブ・東京はこの柴又だったりして。私のoriginは、ここでした。