酷評

 370人の外国人の方々に着付けをし、167のレビューをいただきました。何とか満足してもらっているようで温かい言葉でしめくられているものが多いのですが、評価☆一つで、これはひどい体験だと厳しい感想をいただいたことがあります。事実なので甘んじて受けましたし、処分も受けました。酷評とか批判とか、良かれと思って一生懸命やっているつもりでも、心にスキがあり慢心があったり甘い考え方をしていれば、受けるのは当然です。自分への批判は素直に受けられましたが、今日ネットであるスポーツ選手のアンチファンの手酷いブログ読んで、人が人を罵る言葉というのは物凄いものだなとかなりショック受け、柴又にゲスト連れて行きながら心が重たくなっていました。

 大勢の人々に愛され応援されていれば反対に嫌う人も多くなるのでしょうが、それをいちいち受け止めていたら本当に生きているのが嫌になってしまう、でもそれだけ傷つけられ踏みにじられた時どうやって立ち上がるか、批判されることも糧にして進み続けることが出来るかを神は試しているのかもしれません。

 亡くなった樹木希林さんが、最後まで別居生活続けていた旦那さんのことを「ダイバタッタ」のような存在だったと言っていました。お釈迦様を生涯憎み殺そうとし続けていた弟子ですが、そういう存在があったからこそ苦しみ続けながらお釈迦様は悟りを開くことが出来た。樹木さんにとっても旦那さんは生涯必要な人だったそうです。

 批判されるのはそれなりの理由があり、原因があるのです。私にとってはこの☆一つの評価は訳も分からず突き進んでいる今、道しるべであり重しです。ここから進めばいいのですから。

 昨日お彼岸の法要にお寺に行きましたが、最後に和尚様が座禅をしましょうとおっしゃり、自分の席で姿勢を正し手を組んで100人以上の参詣者が何分か座禅しました。それまで眠くて少し退屈で弛緩していた精神が、一気に緊張して、とても新鮮な感覚で時間が過ぎました。

 自然の中で生かされ、定めに逆らわず頼らず甘えず自分をよりどころにする。自分の意志を持って、自分の心と対話し、自分の心を整えること。答えは自分の心の中にあるのだから。苦しいことあっても嫌なことばかりでも自分を空にして何も考えず、黙ってただ前に足を運んでいけばいいのでしょう。

 いつかこういう話をゲストとしたいと思います。というか、今日のメルボルンから来たゲスト女の子のお母さんはベトナムの尼僧さんだそうで、帝釈様の蓮華経の彫刻の前で他のドイツの夫婦にいろいろ仏教の質問された時、彼女がいろいろ答えてくれました。とてもクリアな英語でほぼ聞き取れたにもかかわらず内容が理解できないところがあるのは細かい単語の意味が分からないのと仏教の生の知識がないせいです。

 宝の山があってもその価値がわからず呆然としている、やっぱり☆一つのレベルです。

 でもめげずに前に進みます。