ティーセレモニー

  最近うちのもと待合室(かつて整骨院でした)でやる立礼のティーセレモニーが男性のゲストに評判がいいのです。息子の五月人形の屏風を風炉先に見立て、柴又で頂いた経机を棚代わりにし建水は小さなすり鉢と、見立て尽くし!ですが、先だって勅題の茶碗を二つ戴き早速お茶を点ててみたらとても美味しく頂けました。何十年も箱の中にしまわれていたものだそうで、お茶碗も初めてのお茶体験です。

 外国人はお茶点てるの初めてが当たり前ですから体験することに素直に反応するのですが、日本人は知らないというのが嫌みたいで無視されたりお抹茶をと勧めるというと断られることもあります。

 私が点てて飲んでいただいた後、ゲストの方々一人ひとり正座して茶杓で茶碗に抹茶を入れ、柄杓で電気ポットからお湯を汲んで茶筅でシャカシャカ抹茶を点てます。いろいろ小声で英語で説明していましたが、最近は日本語で「構えて」と言って両手を膝に置き姿勢を正して呼吸を整える動作をしてもらったりします。お茶を点てて相手に飲んでもらう時は長年やっている私でも緊張しますが、ゲストの夫婦が互いにお茶点て合い、心配そうに飲んでいる相手の顔をじっと見ている姿はとても微笑ましいものです。

 帝釈様の庭には小さなお茶室かあるのですが、この前イスラエルのゲストがこれは茶道の為だけにあるのかと質問してきてそうだと答えましたが、考えてみたらとても贅沢な話です。以前三越のカルチャースクールで「英語で茶道を」という講習を受け、説明できるよう英文の資料もいろいろ戴いて入るのですが、歴史とか精神論とか説明するのに何となくためらいがあり、今は実践のみの体験です。

 

 茶道とは気を一つに集中させていくことによって雑念を払い、心を最も自由で安定したところへと導いていき、私達にその時の心の状態を体感させてくれるものだそうです。一定のルールに従って形と呼吸とを調和させながら、澱みのない美しい所作をつくっていくことが大事で、茶の湯で最もよくないことは慢心と自分に執着する心であり、自分が一番だと思う心や私が私がと我を張ったり、そうした我に執着する心が生じると、茶が誘うところの心の世界をとらえることはできないといいます。物事が思うようにうまくいかない時は正直に今ある自分をそのまま慎み深く受け入れて、ありのままにあることが出来る自分、そういう心の世界を「わび」というとありました。

 深い話だなと思います。そしてこれは皆さんにお茶を点てる私の課題であり、修行なのだということが今わかりました。