いつも何度でも 夢を描こう

It’s calling out from deep within the heart     呼んでいる胸のどこか奥で
I always want to dream cheerful dreams     いつも心躍る夢を見よう

Sadness can never be counted but        悲しみは数えきれないけれど
I will be able to see you on the other side     その向こうできっとあなたに会える

 

Every time people repeat mistakes,        繰り返す過ちの そのたび人は
They know the blue of the simply blue sky     ただ青い空の青さを知る
It seems as if the road continues endlessly but    果てしなく道は続いて見えるけれど
These hands can find light             この両手は光を抱ける

 

The quiet heart when parting           さよならのときの 静かな胸

The ear listens as the body changes to zero    ゼロになるからだが 耳をすませる

Living, mysterious, dying, mysterious       生きている不思議 死んでいく不思議
The flower, the wind, the city; they’re the same   花も風も街も みんなおなじ

 

It’s calling out from deep within the heart      呼んでいる 胸のどこか奥で   
 Let’s draw out dreams always, numerous times   いつも何度でも 夢を描こう

Instead of stating the number of sadness      悲しみの数を 言い尽くすより
Sing softly with the same lips            同じくちびるで そっとうたおう

 

Even in the closing memories, there are always    閉じていく思い出の そのなかにいつも  

Whispers that cannot be forgotten          忘れたくない ささやきを聞く
Even on the shattered mirror shards,         こなごなに砕かれた 鏡の上にも
A new scenery is reflected              新しい景色が 映される

 

The quiet window on the beginning morning     はじまりの朝の 静かな窓
The body that is changing to zero is being pleased   ゼロになるからだ 充たされてゆけ

I won’t search beyond the sea from now        海の彼方には もう探さない
The shining thing is always here,            輝くものは いつもここに
It can be found within myself              わたしのなかに 見つけられたから

 

千と千尋の神隠しの主題歌、木村弓さんが綺麗な声でうたう「いつも何度でも」は、ジブリの好きなゲストたちはみんな知ってい素敵な曲なのですが、私には歌詞の内容が今一つすっと入ってこないところがありました。シチュエーションがわからない、主人公の千尋の心象風景でもないし、と思っていたら、たまたまウクライナ出身のバンドゥリーストで、日本で活動するナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy)が歌うバージョンを聞いてびっくりしました。彼女は6歳のときに『チェルノブイリ原子力発電所爆発事故』によって被曝したそうです。家族、友人、故郷。そのさまざまな悲しみをナターシャが受けて、そして背負ってきたのでしょう。ナターシャはこの歌詞の意味を深く知り、その慈しみの解釈を入れて、自身の人生と重ねつつ、さらには生と死の輪まで予感させ、そして心を寄せてそして日本語で歌っているのです。

 昨日来たオーストリアからの親日派の女の子が綺麗に着物着て歩いている時に、「日本人は伝統的な日本の着物を外国人が着ることを不快に思わないか?例えば外国人がアメリカインディアンの格好をしたら彼らは怒るのに」と聞いてきました。

 柴又の参道のあるお店のご主人は昔は呉服屋さんで、最近中国人とかひどい着物の着方しているの見ると悲しくなると言っていたのを聞いて、着物の品質にも着付けにも気を付けて、時々このご主人に「これで大丈夫でしょうか?」と聞いたりしています。

 着物を着ることを小さい時から夢に描いていたというヘルシンキの看護師さんや、昨日のオーストリアからの四人の女性も初めて着物着ることにワクワクしてます。たくさんの着物の中から本当に似合うものを選び、帯や小物を自分の感性で合わせ、髪型も自分で若いアレンジにして髪飾り付け、私が一生懸命着付けして、そして本当に美しい着物姿に変身するのです。四人とも訪問着選んだので、一人ひとりのお仕度総額50万円ぐらいだと言ったら驚いてましたが、それこそ蚕から始まり糸を紡ぎ布を織り染め模様を描き縫い、という長い工程や手間暇や職人さんたちの想いも込められた一枚の着物を着ようと私のところまで来てくれる彼ら彼女らには、日本の伝統を受け継ぐ立派な資格があるし何かを思って着てくれていることをいつも感じます。

四人訪問着着て参道歩いていると、本当にきれいです。(まだまだ着付けの仕上がりに問題がありますが)それだけで充分だし私はありがたいと思っています。

日本のアニメ映画の主題歌を歌ってくれるチェルノブイリ原発を背負ってしまったナターシャは、歌を自分のものにしてくれたおかげでその内容をもっと普遍的なわかりやすいものにしてくれた、表現とか想いとか発露とか心とか、そういうものを秘めている人たちにとって、国も人種もオリジンももう関係ない気がします。

この前一人で参加してくれたロシア美女がエアビーのレビューに出してくれた写真が足袋と草履を履いた自分の足と自分の影だけが映っているものでした。きれいに写っている写真沢山撮ったのに、彼女の心はここにあったのです。すごい表現!

 「いつも何度でも夢を描こう。

 輝くものはいつもここに 私の中に 見つけられたから」

 

みんな一緒。何かを探している。自分の中に。