自らを削って紡ぐ言葉

「平和は、常に希求されながら、常に遠い目標にとどまるものなのでしょうか。平和の均衡を乱す憎しみの感情は、どのような状況から生まれ、どのようにして暴力に至るのでしょうか。長い歴史を負って現代を生きる私ども一人ひとりは、今を平和に生きる努力とともに、過去が残したさまざまな憎しみの本質を理解し、これを暴力や戦争に至らしめぬ努力を重ねていかなければならないと思います。」

これは1995年にある国際会議の開会式で皇后美智子様が英語で朗読された文章の一部です。

民間から皇室に嫁がれ、口には出せないどれだけの苦しみ哀しみがあったことか、それらを乗り越え清々しい老いを迎えらた皇后さまの鋭い感性と凄烈な心情は、、先ほどの文章の中にも内在しています。

 憎しみの本質とは、たとえいわれのない憎しみを向けられたとしてもそれを瞬時に理解し、止揚すること アウフヘーベン 確か村上春樹の小説「海辺のカフカ」で読んだ心に残ったヘーゲルの言葉なのですが、ふたつの全く異なったものが激しくぶつかり合ってつぶれ、その中から今までとは違う、新しい“ひとつの統合体”、これは感覚なのか信念なのかわからないけれど浄化されて違ったエネルギーになっていくような何者かが生まれることと、今私は解釈しています。

 

 最近読んだ曽野綾子さんのコラムに「危険に学ぶ機会のない世代」というのがありました。曽野さんの青春時代は、すべてが予定され仕組まれ計算された近年の人生の凡庸さにはない、自然で強引な運命に翻弄されるという面白さがあったし、自然を生き抜く野性の動物は、本能という形で、いつも起りえる運命の変化に対処して構える能力を磨いています。野の草は、人や獣に踏まれればその場では折られたり倒れたりするけれど、危害のもとになる存在が立ち去れば、多くの場合必ず根本から栄養を吸って起き上がるというのです。

 皇后さまにしてもどれだけ傷つけられ、苦しんでこられたことか、でもそれらの苦難も全部糧にして、そして自らを削って言葉を紡ぎ、少しでも自己を人間的に深め、より良い人間として国民に奉仕していき続けたいとおっしゃるのです。

 これから日本も世界もどんどん変わっていくし、思いもよらない事態に陥っていくこともあるでしょう。でも踏まれても踏まれても根本からあらゆる栄養を吸って起き上がることが出来るなら、何とか踏ん張って、前に進んで行くこともできるかもしれません。

 昨日娘が、着物を洋風にアレンジして着せる振袖ドレスをあるピアニストのコンサートに使うので着物を取りに来ていて、彼女に聞いた話なのですが、成人式などで着付けを団体でするときは余計なことはしゃべらず決まったことをきちんとやるとか、いろいろお達しがあるようです。一律にみんな同じように差別なく着付けをすること、みんな同じように出来上がるのが良いことなのだそうです。

 うちには四十か国以上の国々から、身長140㎝から2mまで、体重は40㌔から120キロまで、肌の色も国民性も様々、そんなゲストたちが来てくださり、そこで着付けし写真を撮り柴又へ連れていくのですが、いつも正直怖いです。うまくいくだろうか、アクシデントが起きたらどうしよう、気持ちが通じないで最後まで行きつかなかったらどうしよう、と不安だらけだし、言葉が早すぎて聞き取れない、英語がダメでドイツ語しか話せない、えー!それでも何とか頑張って四時間のコースをこなします。参道のお店の人達に助けられ、柴又の彫刻に助けられ、お客様が来てよかったと思ってくださるよう最後まであきらめずに頑張っていきます。