Queen フレディ・マーキュリー

 いつも聞いている朝のラジオ英会話の今月の歌は、クイーンの”We are the champions"でした。世代的に私にはなじみのない歌なのですが、朝から英語で一生懸命歌っていたら、主人が感慨深くなんでラジオ講座でこの歌選んだんだろうと問いかけてきました。私には普通のロックシンガーの歌としか思えなかったのですが、それから何かの拍子でクイーンの話を他の方とすることがあったり、そして昨日はたまたまクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの特集をじっくり見て、彼がエイズで亡くなる前の”ボヘミアンラプソディー”や”We are the champions"を歌うのを聞きました。何かと戦い、何かに苦しみ、それを観客に痛切に訴えている姿、エイズでやせ衰えた容姿を厚化粧で隠し、上半身裸のいつものスタイルで歌う彼を完全に理解することは私にはできないのだけれど、この数か月外国の方々と接してきて、そのオリジンや生まれや差別や愛情の形態や生き方や考え方や、いろいろな複雑なものを抱えながらうちに来て、着物着て茶道に触れて、柴又行って仏教の彫刻見て何かを感じたり話し合ったりできたということが、私にとって世界の多様性と同一性をより考えるきっかけになってきていると思っています。

 コメンテーターの歌手の森公美子さんがフレディの前歯が少しでているから声がよく飛んでより観客に訴える歌になると変わったコメントをしていてちょっと面白かったのですが、一律同じようにきれいな見た目や一定の人生を望むことがベストと思わなければいけないなら、規格外の私は生きている価値もないといわれてしまいそうで、そんな中裸になって王冠と長いマントを羽織り、我々はチャンピオンだと絶叫し命がけで自分の生き様をさらけ出しているフレディに観客たちが熱狂し涙している気持ちはよくわかります。

 一昨日久しぶりに浅草に行って驚いたのですが、雨もちらつく寒い日にもかかわらず、アジア圏の若い女の子たちがたくさんレンタル着物着て歩いていて、ひところ粗悪と評判だった着物の質がずいぶん向上して、一見地味に見えるけどしゃれた感じの着物を着ている外国人が多くなったことでした。たまに柴又で見かける化繊の長襦袢みたいな着物は見かけなかったし、横町に入ると鮮やかな着物姿の東洋人が群れてたりしてちょっといい感じだなと思ってしまいました。

 反対に嫌だなと思ったのはずらりと並んだ人力車とたくさんの車夫たち、若くて健康そうな男性たちが半纏着て客引きしている姿見て、これは違うという気がしました。オリンピックに向けてのボランティア通訳の上着を着た中高年の方々も、英語を話そうと虎視眈々と獲物狙っている感があって、ここの所私のところにたまに問い合わせてくる、英語話せるから手伝いができるという発想もふくめ、英語はツールであって目的でないということをひしひしと感じています。

 我々は何で戦うべきか。

 ロシア語講座の最後に伝説のプリマドンナ、ロパートキナのインタビューがあって、「瀕死の白鳥」を何度も踊っているとき生と死の境目を行ったり来たりしている感覚、壁を通り抜ける感覚が大事で、そこに至るまでの努力は常に怠ってはいけない。突き詰めて、突き抜けて、そして何かから自由にならなければならないというようなことを言っていたのが印象的でした。

 

 今日は久しぶりのゲストで、アメリカからの新婚カップルだったのですが、二人ともとてもふっくらしたタイプで、明るい彼にはなんとかデニム着物と羽織を着せ、可愛い彼女には安全ピンでとめながら黒振袖を着てもらって、外には出ないでうちの中だけで写真を撮り、お茶を点てて差し上げました。時々大きいサイズが充実していないとレビューに書かれることがあるのですが、やっぱり限界はあります。主人は無理なサイズの時は断れというのですが、私はどうにかこうにか写真だけでも撮れるんではないかと思って、それでもそのゲストが現れるまでずっと悩んでいます。一番大きい着物出して何とか前を合わせて着物着た感を味わってほしいと努力してますが、総手描きの娘の振袖はここぞというときに頑張ってくれてます。

 頂き物のおちょこを彼らにプレゼントし、お母様を早くに亡くしたと彼が言っていたので二人のおばあさまに羽織を差し上げ、さりげなく着物を脱いでもらい、頭だけアップでヘアアクセサリをつけて、柴又へ行きましたが、彼らはブロードウェイのミュージカルソングやクラシックボーカルを習っているとか、いろんな話をしました。彼の祖父母はイタリア出身で、彼女の祖父母はアイルランド出身、だから食事はいろいろな国の料理をつくるのだそうです。ピザとかアメリカのジャンクフードは嫌いだし、ダイエットのためビーガンもしたけど今はやめたとか、神社が好きで静かな帝釈様をとても喜んでくれて、お庭見ながら自分たちの宗教の話したり(彼はメソジスト派だそうです)彫刻見ながら仏教の話したり、でも私の英語の語彙が詰まるとそこでおしまいです。

ここのとこ暇だし、本当にいろんなことを詰めていく時期だと思ってます。

 明日はどうなるかわからない、命もいつ終わりになるかわからない。でもそんなこと大したことじゃないのです。最後の最後まで、考えること、向上すること、もっともっとできることを考えること。

柴又の彫刻みてると、もっと彫り込もう、もっと考えようと際限なしに進んでいく彫刻師さんたちの姿が目に浮かびます。仕事しているとき楽しいんだろうなと思います。あまりに多く彫ってあってどこにお釈迦様いるのかわからないときもあるのですが、それが彼らのやり方だし、日本人の特性なのでしょう。やることがあって、考えることがたくさんあって、今私はとても幸せです。