悲しみの本質

急にいろいろなできごとが起きてきました。

 今年はエアビーの仕事のことを知らせた年賀状を出していたのですが、その返事でいとこの旦那様が80歳で亡くなったことを知りました。仲のいい姉妹のいとこたちで、妹さんはお姉さんの旦那様がなくなった悲しみについて「本人が亡くなった悲しみと、姉が悲しいだろうと思うとそれが悲しいという複雑な悲しみを味わっています」と書いてきました。

 今朝ドイツのゲストから息子さんが類上皮肉腫になって、日本の良い病院があったら知らせてほしいと問い合わせがあり、ずっとネットで調べたりしていますが、まれな病気で症例が少ないとありどうにかいい方向に行けばと遠い日本から祈っているしかありません。優しい目をした穏やかなナイスガイの息子さんのルカと日本で呑んだこともあり、妹のラウラと旦那さんのロビンはうちのポスターのモデルでそんなに言葉は通じないけれど家族みんなよく知っていて、真面目な素敵な家族たちがどんなに心配しているかと思うと心が痛みます。いろいろなことが不安定な今の世の中、こういう状態の時、何をどう考えていけばいいのかわからないで混乱しています。

 でも今ふと、帝釈天のお経の彫刻の一枚を思い出しました。メキシコの女の子が見て思わず泣いていた「病即消滅の図」は病に侵された人が法華経の力によって不老不死の境地に至る場面を細かく立体的で迫力ある彫刻に仕上げたものです。ゲストたちはこの彫刻エリアに来ると一様に感動し"Amazing!""The detail of the sculpture is wonderful!"と言うのですが、あまりに彫刻が多すぎて、お経を読み込んでいる私でも何が何だか分からなくなってしまうし、宗教というよりこれは精密な工芸のような気がしていました。

 

 私が変わっているとか変だとか、言い方変えてユニークだとかみんなが言っていると主人が言っていて、もうなんでもいいのですが、人はなんで生きているのかと聞かれたら(トルストイの小説にありました)今私は人のために生きているとはっきりいえます。子供のため、親のため、主人のため?そういう時代もあったし、だから人と比べたりみじめになったりあせったりしてきました。でも一期一会の外国人とたくさん接してきていろんな思いしてきた今、あまりにいろんな国の、立場の、考え、感覚の違う人たちと接触してきて、本当の自分とは何だろうと思ったとき、あんなに強かった自意識がなくなって透明な感覚が残ってきています。

 お釈迦様の言葉にこういうのがありました。「なにも存在せず、あらゆるものが空であるから、あらゆるものが本質である。自分という一点がないからそこには何も存在せず、無数の人の視点が同時に存在する。そこに存在するということだけ。そのための努力をすること。」

 ドイツのルカのことが心配です。パパやママやラウラやロビンがどれだけ心を痛めているだろうと思うとそのことが悲しい、いとこが言っていた複雑な悲しみです。だけど仕方がない。ただ風の音に耳を澄まして、そしてなにも恐れないで無心で進んでいくしかない。多分不老不死というのは自分の心が透明になった時なのかもしれないと思っています。ルカが落ち着いていてくれることを願っています。