生老病死

 昨日はとても寒くて着物着て柴又行くのは大変かと思っていたのですが、カナダのトロントの近くの町から来た高身長のヤングカップルは、寒さはものともせず柴又散策してくれてました。エアビーの彼らの写真が変わった眼鏡かけたファンキーなものだったのではじけた若夫婦かと思ったら、とても静かな二人で学生結婚して卒業したところで一か月の日本旅行を楽しんでいるそうです。京都や富士山に行っていているから、帝釈様に余り反応しないんじゃないかと思いつつ歩きながら特に物静かなサムに話しかけていたら、ぽつぽついろいろ話してくれました。フランス人のお母様は彼が11歳の時なくなり、その後お父さんは再婚されたとのこと(うちの主人も同じです)16歳からタバコ吸っていて、(これも同じ!)日本酒(熱燗!)ビール、ジントニックが好きだそうです。聞き取りやすい英語なんだけど、わからない単語の羅列が続くと聞き返すこともできず、適当にうなずきつつ帝釈天の彫刻のゾーンに入りました。足袋履いただけだから足も冷たかろうと心配でしたが、誰もいなくて静かな境内でお経と鉦の音を聞きながら、サムと必死に宗教について語り合いました。この24歳の男の子に(髭もじゃですが)私はわかってもらいたいと自分の過去や考え方、ブッダについて、今の気持ちを必死で単語探しつつ伝え、彼も宗教観やブッダのこと、通っていたカトリックの学校に対する何らかの違和感など話してくれ、私は話を半分も理解できていないのですが、今度は彼から問いかけられたりして、十枚の蓮華経の彫刻版の前でしばらく時を過ごしました。奥さんのダニエラも話に加わっていましたが、母方の祖母の祖先はカナディアンインディアンだそうで、いろいろ複雑なアイデンティティがあるようです。

 この日は主人の友達から末息子さんが急性胃腸炎で突然亡くなったという連絡が入り、余計いろんなことを考えさせられたのですが、人間の生老病死は運命だし、仕方がない、それを自分の中でどうとらえていったらいいか。折り合いをつけるというか、淡々ととらえるには宙に浮いているような既視感が必要な気がします。私は小さい時からたまに自分が自分でないと感じるスポットに入ることがありました。自分という感覚、思考がわからなくなり、とらえどころも支えもなく宇宙に放り出されてそこからまた必死で自分に戻るのですが、長く続くのは危険な気がして、でも村上春樹の小説を読んでいると主人公はそういう所にとどまって動いているので、すごいなと思います。こんなことを若い時から考えているから、普通の友達がいなくて今も外国人の着付けしているのすごいねと言ってくれている人は多いのですが、最後には「この人変わっているね」でおわってしまうのです。でもサムをはじめこれまでこういう話できた何人かの外国人のことを考えると、こちらが勝手に思い込んでいるだけだとしても彼らとの会話が私の中にしっかり残っています。

 お経を読める人は少ないし、聞いてもよくわからない、でもこのアメイジングな彫刻版はすぐには内容がわからなくてもいろいろなことを考えるきっかけをみんなに与えています。フッダらしき僧が何人かの男たちに棒で乱暴され追い立てられている彫刻を見て、ルーマニアの社長が苛立ちながら「何でこんなことを?」と質問したことがあり、まったく答えられなかったので、同じ質問をサムにしたらしばらく考えて話し始めたのですがその英語が全く分からなかった、困ったものです。でもこれだけ優れた彫刻で、たくさんの人物や事象が彫り込まれていると、その時自分が抱えていることと何かが合致する時がある気がします。

 病気で苦しんだり年老いたり、死んでしまったり、これはしょうがないことです。It can't be helped.それは避けられない、仕方がない。

 ずいぶん前にある宗教雑誌で漫画ブッダ(確か里中満智子さんだったような)の連載をやっていて、説教の場面に「生命は何度も死んでは生まれ変わり、幾度目かの生でやっと人間に生まれるので、みんなすでに何度も死を経験しているのに、それを忘れているだけなのです。何度も生まれ変わるたびに徳を積めばやがて永遠の存在になれます。一日一日を真面目にやさしく思いやり深く一生懸命に生きていれば、来世では恵まれた人生が与えられるのです。今苦しんでいる人、悲しんでいる人、天はあなたを見つめています。来世で幸運に恵まれるよう、良い一日一日を大切に作ってください。生命に感謝して生き続けていれば死んだあとが楽しみです。」とありました。

 でも、息子さん失った主人の友人の今の心境を思うと、やはり胸が詰まります。

 

 ブッダは自分では一切教えを書き残していかなかったので、今広まっているものはみんな弟子が作ってきたものだからいろいろニュアンスも違うのでしょうが、80歳で涅槃に入るときの最期の言葉は、「死ぬということは 人の肉体という殻から 生命(いのち)が ただ とびだしていいうだけだと思うがよい みんな……おこたることなく…精進せよ…」「わしはいま……涅槃にはいる…………」でした。

 手塚治虫の漫画ブッダの中の教えは読みやすく、そしてインパクトのある言葉がたくさんあります。

「人間は自然の流れに身をまかせて生き そして一生を終えるのがいちばん正しいのだ…… 」 

「財産を持っていたときは いつその財産がなくなるかとられるかという心配で」「一日とても心が安まりませんでした」
 「だけど いまはなんにもないのです それだけいっさいの苦しみがなくて 毎日 じつにたのしいのです。死ぬ日までしあわせにくらせるでしょう。」

 「信じていないのなら従うことはない あなたはあなたの本心をたよりにして ゾウのようにひとりで堂々と歩くがよい」
  「それがあなたの息子へのなによりの手本になる」

 「"仏は天の教え "法"は真理の教え そして"僧"は正しい人々の集いのこと」「この三つに従い」
 「信じ犯すことがなければ」「いつかさとりを持てる」
 「だからあなたが だれか苦しんでいる人のことをあわれんだとき」「同じように別の人が きっとあなたについてあわれんでくれているはずです」「相手のために苦しんだことになる」「この心のことを『慈悲』と呼びましょう」
 「慈悲!」「どんな人の心にも宿っているはずです」

 善行をすると意識して修行すべきでない。迷いも悟りも区別しない。我執を捨てよ。いいことをしたとか悟ったと自覚することは、すでに自己の利益や悟りに執着していることになるので、悟りの自覚さえ否定されるのである。すべて(果)は自己の行い(因)によって生ずるものだから、自己を磨きなさい。

 

 フランスの若い男の子三人が暑い夏に柴又に来て仏教の彫刻を見たとき、ひとりがスティーブ・ジョブズも仏教徒だといった言葉がずっと心に残っていて、あとでヤマザキマリの描いた彼の自伝漫画全六巻を読み、ネットでスタンフォード大学での彼のスピーチを聞きました。毎日を今日が最後と思って生きる

1つ目は”Connecting dots”  今やってることが将来何かの形でつながってくると信じることが大切で、自分の直感や人生やカルマ(運命、仏教の業)を信じなさいということ。

2つ目は”Love and Loss”  自分が設立した会社を追い出されるという挫折があったが、おかげで成功の重圧から解放され創造性豊かな時期を持つことができ、たまらなく好きなことをやり続けられた。だから、挫折しても信念を失わないで、自分の好きなことをし続けること、今それがないなら好きなことを探し続けること。妥協してはいけない、Don't settle。

3つ目は”Death”  自身がすい臓がんで死に向き合ったことを告白したあと、死を前にすると真に重要なことだけが残る。時間は限られている。人の意見にとらわれたり、ドグマ(世間で信じられていること)の罠に嵌ってはいけない。自分の心の声と直感に従い勇気を持って行動すること。

最後に、”Stay hungry, stay foolish”ということばでスピーチを締めくくられていました。

クリスチャンのキリストに対する感覚がどういうものかわかりませんが、仏教において仏様に手を合わせるという事は、守ってもらうとか願い事をすることだと思っていました。でも違いました。ブッダは「私の教えを心の糧として誰に照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして自分自身の行く先を照らしてゆけ。自分の心に法灯をともして、しっかりと生きていけ。私が、長年、説いてきた教えは、自分をつくる教えであり、自分をつくりつつ、他人を救っていく教えである。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ・・・・」と言っているのです。

 一緒なんだなあと思います。凄まじい人生を送り、いろんな目にあったあとで、”人生は素晴らしい、世の中は素晴らしい”と言い切れること。”人間の心の中にこそ、神がいる、神が宿っているんだ”と思えること。

少しずつ見えてきたような気がしますが、まだ物凄いもやの中に佇んでいます…