菜の花の忌

 先だって仏壇に供える花を買いに行ったとき菜の花のまじった花束がとてもきれいで選んだのですが、、寒いので大丈夫だと思い一日水換えないでいたら、一晩で水を全部吸い上げてしまい見事に菜の花だけくの字に曲がってしまいました。慌てて水切りしてたくさん水を足したらもとに戻りましたが、菜の花は油断してはいけない花だと心しました。

 昨日新聞に司馬遼太郎さんをしのぶ「菜の花の忌シンポジウム」の記事が載っていて、今まであまり司馬さんの小説は読まなかったのですがパネリストのメンバーの多彩さにも魅かれてそれを読んでみて、その内容の緊迫感に驚きました。23回目のシンポジウムだそうですが、私の現在の思いが結構切羽詰まっているせいか、皆さんの言っていることがどんどん迫ってきます。

 朝スペイン語講座聞いていたら、スキットにプエルトリコ人の女の子が志賀直哉の小説「城の崎にて」を読んで、その場所を知りたくなったから城崎に来たというくだりがあって、本当にびっくりしました。私が小学生の時志賀直哉好きで読んでいましたが、その嗜好が変だとさんざん言われ、中学の時芥川、太宰、横光利一、あと十一谷義三郎という作家の本読んでいたらまたまた変だとさんざん言われ、なんて暗いんだろうと娘にまでいまだにからかわれるのですが、でもたくさんの日本の作家の本がちゃんと外国語に訳され、若い女の子まで読んでいるのです!

 本を読むことすらからかいの対象になるなんて、なんてことだろうと思っていましたが、今回この「菜の花の忌」で取り上げられた梟の城について語る皆さんの言葉を読んでいて、明らかに今潮目が変わってきてると思いました。文学にしろ、絵画、映画、音楽、などあらゆるものに真摯に向き合わないといけない時代に来ているのです。

 梟の城は己の職能を頼りに生きる忍者の姿が描かれた作品なのですが、終身雇用性が崩れてそれぞれのスキルで生きていかなければ生き残れない時代になりつつあることを予言していて、例えば軍隊の中でも職能があって覚悟があって自分の哲学を持っている人は部隊が全滅するようなときでも生き残れたと言います。司馬遼太郎さんは常に読者に匕首を突き付けている、その価値観は本当に正しいのか、日本人はどう生きるべきか、そういった問いかけをしながら、全身全霊の真剣勝負をしているとあるパネリストは語ります。いわゆる厳然たる歴史というものはなくて、あるのは事実、ファクトである。そしてこの事実、ファクトは物語ることによってはじめて歴史になる。世界が様々に揺れ動いているこの時、今がその時であることを見極めることが大切であれば、まさに今がその時なのでしょう。いろいろなカードがそろってきています。

 夫の英会話の先生がポーランド人で、来週一人で来るポーランドの若い女の子に帝釈天をどう説明すればよいか、ヨーロッパ圏の方々は何に一番惹かれるか、今日のレッスンの後聞いてもらったら、「建築と静けさ」という返事だったそうです。建築、そういえばドイツのラウラのパパは東京の建築を見て回っていた、それに平日の帝釈天の庭園は誰もいなくてシーンとしていて、そこに読経の声だけが聞こえてくる、そのシチュエーションに感動していたゲストがいました。勿論お国によって、個人的嗜好の違いによって様々でしょうが、彫刻だけでなく建築という観点からの説明が必要という事がわかりました。いろいろなサジェスチョンいただき感謝しております。