ポーランド

 最近ポーランドの方と接触する機会が増えてきて、コンビニで働いているお兄さんとか旅行者とかにお国は?と尋ねると「ポーランド」と返ってきてちょっとびっくりしたりしてます。昨日は一人旅の22歳のポーランドの女の子とマンツーマンの体験でしたが、ネットでワルシャワはどんなとこかいろいろ見ていたらなんとアウシュヴィッツまで行きついてしまい、ここもポーランドだったのだと気が付きました。見てしまうと気持ちが苦しくて、今更どうだこうだ言う事ではないのですが、相手は22歳のゲストなんだから気持ちを切り替えなきゃいけないと反省しました。

 静かに現れた170センチのスリムなサンドラは一人っ子の学生で、お父さんは指圧師!お母さんは警察関係、本人はファッション経営の学校に通っているとか、綺麗で素直ないいお嬢さんなのだけどビーガンで、かつ空腹で、そして月曜日の柴又はお休みのお店が多くて、苦戦しました。とらやで精進揚げの天丼を特別作ってもらったのですが、かつぶしだしの味噌汁は飲めないし、ご飯も半分近く残してしまい、お店の方に悪いことをしました。この前のベトナムの彼氏はビーガンでも鶏肉もエビも大丈夫だったけど、今回は乳製品もすべてダメとか、精進料理はOKというけどここら辺はないし、コンビニあたりで昆布か梅干しのおにぎりなどを買ったほうがいいのかもしれません。。

 人懐っこいサンドラはずっとしゃべりっぱなしで時々これは英語で何というのかしらと自問自答してましたが、ポーランド語英語ドイツ語を話し、ポーランド語は文法が難しいとか、でもフランス語の文法のほうがもっと大変、では日本語はどのくらい難しいのか、きりがありませんがでも英語さえしゃべれればよいのではない、まず母国語をしっかり身に着けることが大事だと最近つくづく痛感しています。

 私は小さい時は病弱で布団の中で本を読むのが大好きでしたが、そのころ読んだ外国の物語、オリバーツイスト、クリスマスキャロル、愛の一家、若草物語、赤毛のアン、点子ちゃんとアントン、キュリー夫人伝などなどイギリス、ドイツ、アメリカ、カナダ、ロシア・・うちのゲストたちの出身国だらけですが、読んでいた時の記憶とか感じていた雰囲気とかが、会話するときのキーワード手繰り寄せるとき役立っています。

 有名な建築家の伊東豊雄さんが武満徹さんの「音、沈黙と測りあえるほどに」という本の書評に、学生時代は建築は論理以外の何物でもないと思い込んでいたのが、卒業して働き始めた建築家、菊竹清訓の下でその考えを根本から覆されたと書いていました。

 「身体の内側から湧き上がる感情を表現しない限り、建築は人々と共有できない。」しかし建築にとっての近代主義は建築を自然から切り離し、強い形式の中に閉じ込めてしまい、その結果我々は現代都市の均質で孤独な人工環境での暮らしを強いられていると言います。

 同じ建築家の安藤忠雄さんは神戸の六甲で集合住宅の依頼を受け山麓の敷地を訪れたとき、無意識のうちにあったのは、かつて旅したギリシアのサントリーニ島などの集落の記憶で、漠としたイメージをかたちにする過程、葛藤の過程こそが建築だと語っています。

 AIの能力がクローズアップされてきていますが、本能とか記憶とか感情とか個人個人が持つアイデンティティは機械の測る範疇にはないものだし、私たちは人間の基本を体に叩き込み染み込ませ、そして確固たる軸を定めてから何かを作っていかなければならないと思っています。際限のない情報や知識はツールではあるけれど目的ではない、「私が生きて来た生涯で考え悩みそして知りえたことがすべてである」お釈迦様の言葉がよみがえります。

 ポーランドのサンドラと二時間柴又にいて帰ってきたら主人の友達が来ていて、あとで「よく外国人とそんなに長い時間一緒にいられるね」と感心されました。正直彼女の言葉聞いていてわからないことだらけだし、こちらもそれこそ無意識に出てくる言葉をつないでいるだけで、この単語で合っているかと思うことしばしばですが、もう雰囲気ニュアンスで押し通すしかありません。何かの意志を持って私の体験を選びここへ来てくれた、少なくとも出発点はそこから始まるのですから。

 そろそろ桜が咲き始めます。とっておきの桜の花が咲き乱れた帯を出しました。さて、どなたが締めてくれるでしょうか?