異なった声

 急に冬のような寒さが襲ってきて水曜日に来た三人のゲストを直撃、冷たい雨の降る中、主人の車で雨に濡れない日本邸宅山本亭や映画ミュージアムに行ってみました。参道を歩く代わりミニュチュアの古い家並み見たり古い車両に腰かけて写真撮ったりできる限り楽しんでもらおうと試み、帰りはお団子食べたり少し買い物したりしましたが、紅一点の女性は足元結構濡れてしまいました。

 お酒が強い彼女を温めるため、帰ってからイナゴ(グラスホッパー)の佃煮をつまみにwarm sakeと梅酒で乾杯したり、いろいろアフターケアしてくつろいでいたら、彼女が主人に私の料理は美味しいかと尋ねてきて、主人は私はキッチンドリンカーだからお酒飲みながら作っているので酒に合う料理がとても美味しいと答えて、彼女は妙に納得してました。こんな感じは初めてだったのですが、一緒にいた一人でトロントから旅行に来ている22歳の男の子のレヴューに悪天候の中、私がベストを尽くしたと書いてきたの読んで、なかなか思うようにいかないことが多いのだけれど、思い通りにやってそれで満足してもらえるかという事もあるし、人はそれぞれ思いも違うから何が正解かわからないなあとつくづく感じます。

 例の同級生の井上氏の本の難解さに悪戦苦闘しつつ今度は「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」という法哲学入門の本を読んでいますが、わかる言葉だけマーカーで黄色く塗っていたら、合っているかどうかわからないけどわかるような気がしています。(というかわかる言葉しかわからない)

 左翼ではなく、ナショナリズムでもなく、ある種の普遍性をもって大衆民主主義をも批判するような言説、リベラリズムの根本原理は自由ではなく正義であり、それが守られるべき核心なのである。この第三の道、目立つ光景によって不可視化されている空間に気づいてもらう事、異なった声に気づいてもらう事を望んで、井上氏はこの平易?な哲学書を今、この時に書いたそうです。

 民主主義について、民衆を愚民視しているエリートたち自身が実に愚かな失敗をする。完璧に頼れる人などどこにもいないが、愚者が自分の失敗から学んで成長することはできる。そのための政治プロセスが民主主義だと。

 そして大学三年の時の哲学的な回心の体験。精神の転向、あるいは啓示。認識の問題と真理の問題は別だ。ある命題は人間がそれを真であると知りえることなく、真であり得る。真理を主観に還元しない、一種の客観主義で、その後の価値相対主義批判のベースになった発想がその時生まれ、初めて「存在」と出会ったといいます。

 こういうことを21歳で思うのだから、すごいものです。でもこうやって本を書く人物であることが嬉しい、わからなくても彼の頭の中をのぞくことができるのですから。