帝釈天に会いに

 産経新聞の家庭欄の久田恵さんのエッセイが好きでいつも楽しみに読んでいるのですが、先だっての記事の題名が「帝釈天に会いに」とあってびっくり、彼女が柴又に来たのかと思って読んでみたら、今上野の国立博物館で京都の東寺仏像曼荼羅展をやっていてそこに帝釈天がいらっしゃるそうなのです。十年位前に東寺の講堂に足を踏み入れ並んだ仏像曼荼羅を見たときの感動はいまだ忘れられず、京都には行けないけど上野なら行けるので帝釈天についてもっと知りたくて、ゲストの来ない木曜日に勇んで上野に行きました。

 最近上野に泊まっているゲストが多いなと思っていたのですが、久しぶりに京成上野駅に出たら、新しいお店や建物がいっぱいで外国人もたくさん歩いているし、すれ違う人の言語がみんな違っていて外国並みでした。上野公園も人があふれ、暑い日だったので噴水のそばのベンチにはこれまたたくさんの外国人が座り、ここはどこかと思うくらいだし、新緑がとてもきれいで日本も捨てたものではないなとひそかに思ったりしました。

 東寺のポスターの正面の位置にいる仏像が帝釈天だと気が付いて唖然としたのは、柴又の板本尊の帝釈天のお顔と比べあまりにイケメンなのです。館内は混雑しているので、とにかく帝釈天に会いに行こうと奥の会場に入りましたが、たくさん並んでいる大きな如来像、明王像に圧倒されていると、カメラ撮影OKでアイドル並みに沢山の人が撮影しているコーナーがあり、象に乗って端然とポージングしているのはインドの神で天界の聖戦士”帝釈天”でありました。どこからとられても絵になる、えーこれが柴又の帝釈天と同一人物なのかしら。なんで彼だけ撮影OKなのか。謎が謎を呼び、混乱する中でとにかく写メを撮り、それからたくさんの素晴らしい仏像をじっくり見ました。展覧会ではライトアップした中で等間隔にならんでいる仏像の全身を前から後ろから隈なく見ることが出来る、でも反対に薄暗い講堂に足を踏み入れた時に大勢の仏像が一斉に迫ってくる、あの衝撃と圧力感は味わえません。丁寧に書かれてある説明を読み(イヤホンガイド使っている方も多かった)いろいろな知識は入って充実した気持ちにはなりましたが、京都のお寺の膨大な宝物や資料の量に圧倒されつつ、頭で考えることで終わってしまう閉塞感を感じていました。

 それに比べ、わが柴又の帝釈天。もうこれがお寺の名前と思われ、帝釈様と愛されている帝釈天の実像はあの聖闘士星矢のようなお姿ではなく、板本尊に描かれていた黒い衣装を着けた小さい帝釈天なのです。平日は閑散として静かな地方田舎のお寺なのですが、お経を聞きながらご本尊にお参りして回廊を回り四季折々の花に満ちた庭園で静かに時を過ごし、鯉や亀のいる池や御神水、申の石像、仏塔を眺め、最後のクライマックス、十枚の蓮華経の彫刻版に圧倒される、でも170回も来ているのに私はいまだたいした説明もできないでいます。東京の田舎の簡素なお寺、でも、ここには神様がいます。いまそれがわかりました。説明できてもできなくても、なんであっても、神様はここにいらっしゃいます。

 今まで狭い日本の社会で生きてきて、外国も知らず外国人と話し合ったこともなかった、でも着物を媒介に日本の文化について考え外国人の思考や嗜好についても少しわかるようになってきた今、ここで自分のアイデンティティーをしっかり見極め、それをよすがに歩いて行っても大丈夫かなと思い始めています。

 もう一つ、博物館での収穫はお土産売り場にあった「阿吽」の漫画全集!で、スイスの女の子に阿吽の意味を教わったのがきっかけで、最近は龍の彫刻見ながら阿吽についてゲストたちと話しているのですが、これがまさか漫画のタイトルにまでなっているとは知りませんでした。最澄と空海の物語で少女漫画チックの画調についていけず購入はしませんでしたが、これは外国人が読んでいるはずだから、内容を知らなければなりません。良くも悪くも中高年が感慨にふけりながら仏像鑑賞する時代ではなく、若者が生き方を探る上での手段として新しい解釈をして発信していくという宗教の形になってきているのかもしれません。

 出張のお仕事している東寺の仏像たちがいないがらんどうの京都の東寺の講堂のこと思うと、心が痛みます。はるばる京都まで行って、肝心の仏様がいないなんて考えられません。でも、柴又は変わらない。いつもそこにあるのです。