雲自去来

 今月のお茶のお稽古場の掛け軸は、「雲 自去来」と書かれていました。『青山元不動 白雲自去来』がもとの句なのでしょうか、「せいざんもとうごかず はくうんおのずからきょらいす」と読み、何の拘りも囚われも無く何処から来て何処へ行くのか悠悠と棚引く白い雲のことだそうです。

 人生はいろいろ。時に真実を覆い隠す雲が現れることもあるし、時には真実をくっきりと浮かび上がらせる雲も現れる。そして、時は無常迅速、諸行無常、されど万法は一に帰すと教えてくれています。

 何事にも動じない心。何事にも固定観念を持たない自由な心。その心こそ“無心”。全てに実体など無い。しかし、眼前に現象する事実は事実、素直に受け取る。己は己であって己ではない。己とは部分であり全体。私たちは自然の一部であり大自然の凝縮。人生には晴れもあり、曇りもあり、雨もあるが、長くは続かないし、今日の雨は今日の雨で、昨日の雨でも明日の雨でもない。

 煩悩即菩提。そんな風に思えるようになると、坐禅がグッと楽になる。煩悩は完全にはなくならない。それが人間なのである。だた、煩悩の力を奪い、煩悩に翻弄される事は坐禅により実現できる。要するに、欲望など固定ではないから、浮かんでも放っておけば消えうせる。禅は“あるがまま”を大事にする。それが“拘らず・囚われず・偏らない心”である。山のように泰然自若として己の本質を迷い無く生きる。富士に向かって坐っていると、無縄自縛で苦しことが多い人生だが、実は“縄”などなく、心を自由にすれば心は動かない事をしみじみと感じる。
  自然体で生きることこそが、心身の健康の源。物事は難しく考えないこと。素直に生きること。今の自分に出来る事に全力を尽くせば宜しい。結果は自然と成る。無理をすることは自然に逆らう事。逆らって良いことは何も無い。

 己の本質を迷いなく生きること。変わっていようが、おかしかろうが、それが自分の本質ならば受け止めればいいのでしょう。

いつも叱られてばかりで辛かったお茶のお稽古の中に、何とたくさんの文化や宗教や美学がつまっていることか、ただそこに書いてある字がそれだけで意味のある深いところにつながっている、深い井戸につながているのでした。

 いろんなものが怖かったり嫌だったり逃げていたけれど、月が二つあるとか居場所がないとか思っていたけれど、あんまり関係ありませんでした。ただ黙って風の音に耳を傾けていればいいのでしょう。そして何も怖れないで。