クイアガール  Queer girl

 土曜日の朝のSNS英語術というテレビ番組を終わり間際にちらっと見たら、"LGBTQ+について" とあってQは何だろうと調べたら、クエスチョニングとクイアという二つの言葉の頭文字をとっているそうで、Questioningとは自身の性自認(自分の性を何と考えるか)や性的指向(どんな性を好きになるか)が定まっていない、もしくは意図的に定めていないセクシュアリティを指すのだそうです。あえて自分の性自認や性的指向を決めないほうが生きやすい、まだ決まっていないと思う、どのセクシュアリティもピンと来ない、ひとつに決まるものではないと思う「わからない、違和感がある」が自然という感覚なのですが、そもそもセクシュアリティとは流動的なもので、変化することも当然あるし、そのような転換期もまた、クエスチョニングと呼ぶことが出来るのです。性は絶対にひとつに決まるものではなく、「自分の性をきめなくてもよい、決めない」というアイデンティティーがあるということも知っておかなければならないとありました。

 そしてQueerという言葉。実は去年の七月に来たアメリカの女性のプロフィールにI,m a queer womanとあって、クィア(Queer)とは「風変わりな・奇妙な」といった英語圏の言葉ということで解釈していいのか、そういうことをわざわざ言うかと疑問に思いながら彼女を迎えたの覚えています。すらっとした知性的な彼女は食品添加物とかのアレルギーがあってほとんど何も食べられなかったのと、着付けしていてお父さんの話になった時、「私は彼が好きでない」と言ったのが心に残りました。雨が降っていたのでうちの中で二枚浴衣を着て写真を撮り、刀を持ってファンキーなポーズとったり、他のゲストと話したりして明るい顔をしていました。いろいろ調べていたら、この「クィア」はゲイだけでなくレスビアンやトランスジェンダー、クロスドレッサー(自身の性を表現するにあたり、異性装を行う)なども包括する概念であるため、マイノリティ全体を繋ぎとめ、連帯へと導く働きがあるのだそうです。

 “Queer just means no, I don’t do that. I don’t identify as a man. I don’t identify as a woman. I barely identify as a human.”

(クィアとはつまり、「NO」という意味だ。僕はそんなこと(人を男女に分けるようなこと)はしない。自分を男とも思っていないし、女とも思っていない。かろうじて言えば、単純に自分が「人間だ」と思っているだけなんだ。

  65歳の私がLGBTQ+にかかわっていくのは無理があるという気がしてはいるのですが、なぜ今ここにこだわるのかというと、性とかに限らずいろんなことに違和感を持っていながら、我慢して生きていたら多分自分の終末は厳しいものになっていくだろうという予感があるからです。いま私は好き放題に生きていると夫に言われるけれど、それでも行動の基準、というか人とかかわるときここだけはクリアしていなければというのはそこに真心があるかであり、他者に向ける温かいまなざしを持っているかということです。

 芥川賞を受賞した小説「コンビニ人間」の作者村田沙耶香さんが、「違和感があるということは眠っている自分の意志があるということで、心の奥の違和感に気づく時、人は主体的に生き始めることが出来る。自分の意志を目覚めさせ、自分の価値観で生きることでたとえ世界との摩擦は激しくなったとしても、人間は自由に生きるときに初めて感じる喜びというものがあるはずだ。小説の中に社会への反発やメッセージを込めることはないけれど、作品の中に人の心の痛みや苦しみを保存できると思っている」といっていました。自分が自分を認められるようになった時、初めて相手が見えてくるし思いやれるようになるというのがやっとわかってきています。

 違和感はクイアの象徴だとしたら、それはこれから生き延びるための証かもしれず、炭鉱のカナリア、ミネルバのフクロウ、敏感な鳥たちのように空気中に見えない網を張って何か危険を感じ取ろうとしている、そしてその上で何かを表現する、訴える、作り出す、挑戦する、人たちの姿を今たくさん見ています。人間はなんで生きているのかと思うけれど、本音で魂で生きていかないと時間がない気がしています。