蜘蛛の糸

「 ある日の事でございます。御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。」

 芥川龍之介の蜘蛛の糸の初めの文章です。最近ゲストに日本の小説家の話をするとき、村上春樹やカズオ・イシグロのことが多く、芥川、太宰、三島、川端などもう古典に入ってしまうのでしょうか、そこらへんには触れないでいるのですが、この所帝釈様に行って蓮の花を見ていると、ふと蜘蛛の糸の一節を思い出すようになりました。中学校の弁論大会で芥川と太宰治についてという題名でスピーチしたとき先生方に自殺しないでねと言われたことがあって、その頃から私は暗い資質を持っていたのですが、あれから四十年たってまたここへ戻ってきたなと思うと不思議な気がします。独りよがりで人を傷つけることの多い罪深い私の唯一の贖罪は蜘蛛を殺さないことで、着物部屋によく出てくる蜘蛛たちはすべてそっと紙にくるんで外の植え込みに放してやります。

 外国のゲストと接しているといろいろな方がいて、今更ながら自分のアイデンティティとか考えていますが、結婚する前義父たちが私の姓名判断をしたらかなりよくないものだったらしく、運勢の悪い私の唯一の救いの道は夫に従って夫を盛り立てることだといわれたことがあります。60歳過ぎて還暦過ぎたころからいろんな出来事や出会いがあり、運勢が変わって新しい体験をしてきましたが、そのテリトリーが柴又の帝釈天であり、いつもお釈迦様に見守られてきたのだと気が付いて、今更ながら有難く思っています。

 世界の国際問題は混迷を極め、特に日韓問題に関する韓国の大統領の人間性のひどさにはあきれてしまいますが、実際問題として、今ゲストに絶大なる人気を得ている主人に対する誹謗中傷をいまだ繰り広げている身内の人物のオリジンがかの国で、ありもしないことを捏造し他人を傷つけ騒ぎ立てる姿を見ていると、彼らは血の海の中で苦しんでいる犍陀多のような気がしてきました。

 義父が昔、一軒の家や船や、大きくいって国のトップがダメならばその家は壊れ、船は沈没し、国は亡びるから気をつけろ、特に船はネズミが逃げ出したらもう危険だと思え。お上のいうことは当てにするな、自分で自分の兵糧やお金はきちんと確保して蓄えて置け、信じる者は自分だけだとよく説教していました。

 ユダヤ人で迫害を受けたり国を追放されたとえ無一文になっても、自分の中にしっかりした核とアイデンティティと知識や能力と良心さえあれば、何とかやっていけるという教えを両親から受けたという話を読みましたが、そこまで追いつめられる時代が来るかもしれない、それなのに・・・


 [御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがて※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。」

 身を引き締めて、これからもゲストの方々と接し、欲を出さず生きていきましょう。