シューベルトミサ曲

  今日久しぶりに渋谷にシューベルトのミサ曲のコンサートを聴きに行きましたが、安達陽一先生の指揮で昔のコーラス仲間が歌うのを見て、本当に感動しました。たくさんの合唱団で歌い、いろんな先生に習いましたが、最後に習った安達先生はオランダで勉強なさった方で葛飾の合唱団では歌ったことがない色々な曲を歌わせていただき、審査員賞をもらったりもしました。どちらかというと大柄でもっさりしてあまり細かい注意もしないのですが、今日客席で指揮をずっと見ていて音楽の作り方や空気感、世界観が温かく、人間性とかアイデンティティというのはほんとうに物事の根幹だなと深く感じましたし、コーラス仲間で割と悪口をいつも言うタイプの方々のお顔がちっとも楽しそうでなくて歌っているの見て、シューベルトだろうがモーツァルトだろうがどんなに歌っても、音楽の心に触れられないのだなあと思います。たくさんのお客様がいらして、アンコールの時先生も驚いてましたが、定年になった大勢の中高年が時間を持て余している今、普通に温かいこういうコンサートを聞いたらきっと自分も一緒に歌いたくなるのではないかと思うし、音楽を通して心が通じ合う、アイデンティティの共有、なかなか得られるものではないものがここにある気がします。なぜ人は音楽するか?人に喜びを与えるため。共に喜ぶため。人を愛するため。みんなが喜んでいる姿ほど尊いものはありません。

  今私は帝釈様の仏教の彫刻の前で宗教についてゲストと語り合っていますが、コンサートのプログラムのミサ曲の歌詞の対訳を読んでいて、キリエとかグローリアとか今までもいろいろ歌っては来ましたが、クリスチャンの気持ちというか、仏陀とキリストの違いというのを感じています。

 94歳の実母が六回目の入院をしていますが、今回は片方の肺が白くなってしまって苦しそうで厳しい状態になっています。手をさすりながら、苦しいのさえ取れればいいと思っていますが、これだけ帝釈様に通いお釈迦様のこととか考えていると、生老病死は仕方がないことだし、心残りがなければこっち側にいようがあっち側にいようが94歳の母には関係ないのかもしれないと感じています。正しく見、正しく考え、正しい言葉で、正しい行い、正しい生活、正しい努力をし、正しく念い(おもい)正しい心の統一をすれば、この八正道を修めれば苦しみを滅ぼしつくした境地に入るとお釈迦様は言っておられます。施設や病院で皆さんに慕われ温かくしてもらえる母はもろもろの悪をなさず、もろもろの善を行いおのれの心を浄くすという仏様の教えを生きてきたのでしょう。

 サンクトゥス 聖なるかな、万軍の神なる主は。天と地はその栄光に満ちています。

 ベネディクトゥス 祝福されますように、主の名においていらっしゃる方が。

 アニュス・デイ 神の小羊よ、世の罪を取り除いてくださるお方よ、私たちを憐れんでください。私たちに平和を与えてください。

シューベルトは31歳という若さで死んでしまったのですが、美しい曲をたくさん残し、それを歌ったり演奏することで多くの人々に喜びを与えています。母もシューベルトのアベマリアをよく歌っていました。心の平安がいつも母にありますように。