あらしの夜に

 最強の台風が接近中で、警戒警報、避難勧告が葛飾にも出ています。川に囲まれた地域なので氾濫の恐れのある場所は早めに避難してくださいとのこと、でも今のところこの高砂は大丈夫みたいで、私が五歳くらいの時川が氾濫して洪水になったことがありましたが、いつどういう加減でどういう被害が出るかわからず、ただじっとしています。

 一昨日いろいろ差しさわりのある国からのゲストが来て、とても楽しい時を過ごしましたが、写真やコメントも公にするのは控えてと言われ、難しい世の中になったと感じています。でもこの台風という天災も、ある意味意志を持った試練というか、凌がなければならない相手であり、早めに布団に入って豪風雨による家の揺れを絶え間なく感じ、川の氾濫注意のスマホの警戒音を聞きながら、今私たちに必要なのは危機感の感覚であり、そこからどうやって自分たちを自分たちで守るか、の知恵を育てるという試練だという気がしています。下町は地盤も民度も低いから、荒川、中川が氾濫したらどうしようと思っていたら、早々と広くて浅い多摩川が危なくなり、世田谷に突然避難命令が出たのには驚きました。それから日本の有名な川がどんどん氾濫しそうだとレポートされ、台風という大きな生物が大きな舌で日本を舐めつくしていくようです。

 ユダヤ人精神科医で心理学者のフランクル氏がナチスによって強制収容所に収容された経験をもとに書かれた体験記「夜と霧」は世界的ベストセラーですが、英語版タイトルは”Man,s Search For Meaning(生きる意味を求めて)”だそうで、極限状況に置かれた時 人間がどういう行動をするのか、つぶさに観察した著者はこう結論しました。「私たちは学ぶのだ、この世には二つの種族がいる、いや二つの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを」。ご承知のように私はまともな人間ではありません。しょっちゅう人を傷つけたり、人に嫌われたりしています。ただ今は、いつもその意味を考えています。何故人と違う考え方をし人と違う行動をとってしまうのか。

 四十年私や主人を悪く言い続け、冷蔵庫に食料品をあふれるほどため込み腐らせ、台風のさなかにトイレットペーパーを買いに橋のたもとのスーパーに行こうとする義母と暮らし続ける意味は何なのか。昨日の台風にびくともしない頑丈な家を建ててくれた義父に感謝しつつ、この家から避難させた子供たちに安否を問うラインをする夫を見ながら、長男として継母の面倒を見ているのに陰で罵倒され続けていることを達観している姿に敬意を表します。

 台風で多摩川が氾濫して避難するか否か迷った知人が、その時の判断がいかに大切かといっていましたが、やはり義父が同じことを言っていて、戦争で外地を回りながら、生き残るためにはその時その時の正確な判断が必要だとよく説教されました。正確な判断、まっとうな人間性、人を大事にする気持ち。共感力。

 クロアチアを旅していたある俳優さんが、紛争で十歳の息子さんがあっけなく銃で撃たれ死んでしまった、その事実にどうしても気持ちが付いていけないでいる父親の家を訪れて、ただ黙って話を聞きそれで帰って来たけれどそれで良かったのだろうかと自問しているテレビ番組をみました。うちに来るゲストもいろいろな問題を抱え迷ったり悩んだりしている人もいて、よくわからないしどうしようもできないけど私たちは最善を尽くしてもてなし、そしてハグして別れる、それは私たちもいろいろ抱えて悩んでいるからで、そこのところだけは一致している、やるせない悲しい苦しい、でも今この瞬間だけは気持ちが一緒で、そしてその気持ちだけがわかるという、ありがたさ。

 異国人とこんな体験ができ、感情に共感できるのは、ある意味義母の存在があるから、と思ったら、「ブッダ」という手塚治虫の漫画にでてくるダイバタッタのことが思い浮かび、仏陀を殺そうと何回も試みるが失敗し、最後に爪に毒を塗って刺そうと思ったら生爪が剥がれて自分に毒が回ってしまうのですが、私たちを嫌い、娘を疎む義母と何十年と一緒に住んできてその毒の存在に苦しむ反動で、一期一会の異国人をここまで愛することができました。

 自分の旦那さんの内田裕也氏はダイバタッタだったという樹木希林さんの最後の主演映画「あん」のポスターの言葉が ”私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきたのだとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味がある”とありました。決められたように、世間的に同一に生きることが出来なくても、生きる意味はあるのです。走る哲学者といわれた元陸上競技の為末大さんの「生き抜くチカラ」という本のメッセージがこうでした。

 ”だれでも、自分の生きたいように生きていい。そして生きたいように生きていける”

 がんじがらめだった三十年の長い生活が終わって、今自分の責任で生きたいように生きていけるしあわせに、義母と毒はいまだくっついてきますが、それもお釈迦様の思し召しなのでしょう。