介護する意思がない

 七回目の入院をしている94歳の実母が介護5になり、今までいた施設から特別養護老人ホームへ移らなければならずいろいろ書類を作っていただいて、候補にあげたいくつかの施設から問い合わせの電話が掛かってきているのですが、今日は住民票のある自分の家に戻れない理由が、「家族に介護する意思がない」と書かれているがどうなのかと係の方に聞かれ、絶句してしまいました。

 義母も来週退院してきますが、右腕骨折だし認知症も進んできているし、全面介護していかなければなりません。本当に今までいろいろ嫁姑問題があり、こじれたことも度々でしたが、だから介護する意思がないと言って私が拒絶する問題でもありません。半同居していた弟の嫁は母の介護することなどありえず、近所に住んでいる義弟の嫁も義母の面倒を見ることなど考えられないようで、何年も顔を見せません。

 私が十年以上前に介護福祉士の資格取るとき、しばらく研修で通った特養の施設で、何十人という入居者とのコミュニケーションをとる仕事していて感じたのは、介護は本能でするもので、これがなければたとえ仕事であってもつらいのです。

 曽野綾子さんの「人間の芯」という本に、国家や社会を当てにせず自分の嗅覚を研ぎ澄ます、自分が”見た通り”を信じる癖をつけるという所があって、沢山の入居者さんたちと一時間以上過ごすとき、自分の感じるように見ているように話しかけ笑い触れ合う、言葉の通じないゲストたちと触れ合う時と同じですが、これも自分の嗅覚を研ぎ澄ましていないとできない事です。良い方向に感じてもらえるようにあらゆる手段を使ってコミュニケーションをとるということは両方一緒で、これからの混迷の国際社会に一番必要なことだと思うし、だからこそきな臭い匂いのする危険はいち早く察知し、逃げる算段もできると思えるのです。そんなとき、(介護する)意思がないなどという人物の行く末はあるのだろうか、少なくともこういう人とコミュニケーションをとりたいとは思いません。

 これから何があるかわからない、とにかくひとつずつ誠意を尽くし自分の力を尽くして進んでいくしかありません。とりあえず、ダブル見舞いに出かけます。