壁の先へ

 いつも目立ちすぎる外国人連れて柴又まで一駅電車に乗るのですが、異様な光景なのに多くの乗客の方は無表情で無視して静かにしています。お騒がせして申し訳ないとは思っていたのですが、昨日母がいる老健に行って食事介助していた時、同じテーブルにいた方々の表情が電車の中の人々と同じことに気が付き茫然としました。認知症とひとからげにしてはいけないのでしょうが、半ば機械的に食事し、排泄を促されることに抵抗している車椅子の男性見ていて、こういう生き方は何か違う、なんでこんな風にしなければならないのだろうとずっと考え続けていました。

 私たちはどこか深い沼にはまり込んでいる気がします。自分たちで自ら列をなして海に飛び込もうとしている、なぜいろいろなことに喜び感動し何かを作り上げていこうとか思わないのかしら。

 オリンピック二連覇した羽生選手がその後モチベーションがなくなりふわふわしていましたが、たちどころに試練がたくさん現れより厳しいジャッジやハードな日程、コーチ不在というアクシデントまであって勝てないという屈辱を味わい続けているのに、なぜかそれが幸いしていろんな感情やつながりができてきたり、何よりも今後の目標を「壁の先へ」と設定してきていることに驚きます。壁の向こうでもなく、壁を越えてでもなく壁の先へということは、彼にとって壁は敵ではない、壁も必要であり受け入れる存在であるのです。

 帝釈様の彫刻ゾーンの蓮華経の法話の中に常不軽菩薩の話があって、三人の人間が常不軽菩薩を棒で殴ろうとしている彫刻を見て、ルーマニアのゲスト、小さな会社を経営していて部下のためにお守りをたくさん買っていたのですが、彼が腹立たし気になんでこんなことするんだと問いかけてきて答えられなかったのです。でもいまわかりました。殴りかかる人間たちは壁なのですが、それは必要不可欠なもので、それを倒したり排除したり憎んだりするものではない、それを認めたうえで越えていくことが必要なのです。壁に登ってその先へ飛んでいくために壁は大事なのです。 

 すべてのことには深い意味がある、それをいつも考え続け、それによって醸し出される感情を大事に表現していくこと。

世界は変わり目に来ています。私がやっていること、やらなければならないことを支え、指南し、導いてくれるものすべてに感謝しています。