問い続ける意志  石を穿つ(うがつ)

 新年から固い題名になりましたが、サグラダファミリア教会の芸術工房監督、外尾悦郎さんの特集記事を今朝読み、いろいろネットで彼のことを調べているうち、考えがまた帝釈様の彫刻のこととダブり始めています。私よりも一つ年上の外尾さんは優しそうな眼をしたダンディな男性で、ネスカフェのCMにも出ていて、スペインで知り合ったピアニストの奥様とお嬢さんとバルセロナに住み40年以上も建築に取り組んできました。

「僕の仕事は概念をしっかり持っていないと答えを出せない。これ以上問い続けるものがないというまで問い続ける。それが僕の一番大きな、そして最後の武器です」「外国人は何倍も仕事をして結果を出すしかない。負けたらそこでおしまいだ」

 40年以上前に雇われた時は名前も呼ばれず、過剰な仕事を課され、休みを返上して耐えたそうですが、失敗すれば次はない請負契約から

正社員になったのは34年後のこと、それからもガウディが作った模型の破片、残した僅かな言葉など限られたヒントからあるべきものを探し求め、ときにそれはガウディ自身が構想すらしていなかったものにおよんだそうです。

 「神はお急ぎにならない」ガウディはいつ完成するかと問われるたびに決まってこう答えていたし、没後も自分を乗り越えるものを作れるかと皆に挑戦し続けているようです。

 いろいろネットを検索していたら、辻仁成さんが外尾さんにインタビューしているサイトがありました。外尾さんは12年前にカトリックの洗礼を受けたそうですが、だから何が変わったわけでもなく、ただ今までよその家に入っていく感覚だったのが、洗礼後は自分の家に入っていく感じになりこれはとても大きいことだそうです。そしてとても興味深い発言があり、「こっちの人が不幸なのは生まれたときに洗礼を受けているので、それからみんな離れて行ってしまう、信仰心がないのにキリスト教徒になってしまうのは決して幸せなことではない」というのです。前にカナダから若いゲストの夫婦が来て結構突っ込んで宗教の話をしたのですが、カトリックの学校に行っている時に違和感を感じていたと言っていました。

 外尾さんはガウディが残した資料なり破片なりがあった時は、そこからイマジネーションを膨らませることが出来たけれど、それが何もなくなった時、ただ絶望しかなくなってしまいもうやめるしかないと思ったそうです。ガウディはもう助けてくれない、どうしようと考えふとガウディと同じ方向を見てみようとしたとき、ガウディが自分の中に入ってきたそうです。その時に、世界で一番大事なものは愛情だ、それを説いたのはイエスキリスト、だったらキリストの後をついていくのは面白いかなと思ったと言います。

 外尾さんがサグラダファミリアで一番古株になり、いまだ必要とされている一番大きな理由は、彼が外国人であり異邦人であり違う目で見ているからであり、生まれた時から聖書や公教要理で考えている人にはないものを持っているからだと言います。外国人は常に外国人ですが

良いものを残していくには外国人の血が必要で、ルネッサンスとかヨーロッパが常に文化を維持できたのは外国人の目を生かしているからだと。そしてこれだけ重要な地位についたら当然嫉妬や妬みもあるだろうという辻さんの最後の問いに、外尾さんはこう答えています。

「良いことをしたら必ず敵は増えます。だから、敵が増えたら喜びましょう。妬まれるほど良いことをしたんだって。みんなと仲良しっていう人はね、本当の友達はいないですよ。強く憎まれる人は強く愛される。友達ってね、遠くで何にも言わなくて、何にも助けてくれないけどね。でもいるというだけで力になるし、同じように戦ってるから自分も頑張れます」

外尾さんの彫刻を見てみたい、日本人が彫ったキリスト教の彫刻を見てみたいのです。何百回と通っている帝釈様の彫刻とどう違うか、彼の本当のアイデンティティはどうあらわれるのか、仏教の彫刻でもキリスト教の彫刻でも根本は変わらないのか。そしてそれを見て私は何を感じるのでしょうか。

 2026年にサグラダファミリアは完成するそうです。エアビーの民泊に泊まって、案内してくれる現地の体験を探して、私はバルセロナへ行きます。

 このブログの題名は、新聞記事にあった見出しからとったのですが、石を穿つという言葉は、雨のひと滴(しずく)でも、一定の位置に長い間したたり続ければ、固い石にも穴が出来るということで、弱い小さな力しかなくても、長く根気強く努力すれば、やがては成功することの喩(たと)えだそうです。外尾さんにふさわしい言葉です。何があっても、信じたことをやり続けていきましょう。