別れ

 主人の仕事仲間の先生が七日に亡くなられました。少し年上で飄々とした金指先生とはゴルフに行ったり飲みに行ったり息子さんが築地で働いていたのでお正月のマグロやカニを頼んだり、いろいろ親しくさせていただいていました。私はなぜか金指先生のファンで、早朝のゴルフのお見送りの時ぐらいしかお目にかからなかったのですが、好きと公言していたら他の先生に「ただの普通のおじさんのどこがいいんだ」と言われてしまいました。

 体を悪くされ入退院を繰り返し、あまり容態が良くないと聞いていたのですが、暮れに快気祝いとして信州の白馬錦というお酒を二本送って下さり、その後主人たちと会食してそっと別れを告げ、そして新年を迎え静かにあちらへ逝かれました。

 連絡を下さった奥様と電話で話しながら「人様が亡くなってこんなに泣いたことはないんです」と言って主人は号泣していました。なんでいい人は早く逝ってしまうんだろうと嘆いているのを聞いて、ふと蜘蛛の糸を思い出しました。金指先生は身軽に飄々と蜘蛛の糸を登ってしまいお釈迦様のそばで今くつろいでいるのかもしれません。何のためらいもなく一直線に昇ることができる方なんて、なかなかそんな人はいません。だから私は好きでした。

 正月に来た娘の旦那さんが金指先生が送って下さった白馬錦のお酒を見て、「若い頃スキー場言っていた時よくこのお酒が出たんです、懐かしい」と言って飲んでいるのにびっくりしたのですが、偶然というより、すべて見通してこのお酒を送って下さった気がしています。

 

 人はなんで生きているのでしょう。そんなことを考えていたらトルストイのこの題名の小説を思い出しました。天使ミハイルが、神さまの「ひとりの女の魂を抜いてくるように」といういいつけをやぶって人間界に下ろされて人生とは何かを悟ってくる物語です。

人間の中にあるものは何か人間に与えられていないものは何か人間はなんで生きるか、そしてそれがわかったら、天に戻ってくるがいい」といわれたのです。

神さまの第一の言葉「人間の中にあるあるもの」-それは愛であることを悟りました。

神さまの第二の言葉、「人間に与えられていないものは何か」、それは「人間には自分の肉体のためになくてならぬものを知ることが与えられていない」ということが分かりました。(肉体の維持のために必要な分限がわからない。必要以上に物へこだわり、富へこだわることになっている。)

神さまの第三の言葉「人はなんで生きるものであるか」「わたしは、すべての人は自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きるのだということを知りました。」

 人間はただ、愛の力だけによって生きている、愛によって生きているものは、神さまの中に生きているのです。つまり神さまは、その人の中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから。サクラダファミリア教会を作っている外尾さんがガウディが何を考えているかわからなくなり絶望していた時、ガウディが見ているものを同じように見てみようとしたら、そこには神がいて愛があったというようなことを言っていましたが、大上段に振りかぶって言わなくても、その人が存在して見ているものが神でありそこに愛があるならば、それがそのまま生きている意味なのでしょう。金指先生は私にここまで考え、感じさせてくれる存在だったことを亡くなった今改めて知りました。

 お別れする日は13日で、横浜まで主人は朝早く出かけます。私はその日のゲスト、イタリア人三人と日系の女の子とともに柴又に行きます。一生懸命着付けして、帝釈天の彫刻ゾーン行ったら、彫刻の中のどこかにいらっしゃる金指先生を探して来ようと思います。

 主人は泣いて、泣いて、泣いてしまうでしょう。こんな別れがあるのでしょうか。でも金指先生はきっとどこかに救いを感じさせてくださると信じています。