大丈夫

 スーパーの自動支払機のチャイムが、病院のモニターの警戒音とそっくりなのにびくついたり、施設へ行く方向の橋を見ると渡りたくなったり、ロス感情は思いもかけないところで出てきます。エアビーの仕事が忙しかった二年間はろくに行かなかったのですが(でもこの期間は調子がよく、最晩年の絶好調期でした)一段落して暇になった頃を見計らったかのように、母の具合は悪くなりました。入れ歯を外してしまってからは顔も変わるし会話もしなくなって、流動食やカロリーの高いゼリーも持て余すようになり、私には不機嫌な顔をしばしば見せるし、つらい様子も眉間のしわも多くなりました。それでも少しでも回復すれば病院にはいられず、久しぶりに戻った施設でも一週間もたたないうちにまた救急車で運ばれる容態になり、とうとう退去の依頼が出ました。それから老健という看取りもできる施設に移り、二週間後に又救急車で元の病院に戻りました。老健で流動食を食べさせても、食べたくない、助けて下さいと言ってつらがっていたので、病院に入り点滴だけで食事もしなくて良くなると落ち着いてきて、きょとんとした目をしたり頭がかゆいから洗ってと言ったり、最後に向けての準備をしていたように思います。夜中も小さい声で歌ってましたよと言われ、この最後の入院で心静かに過ごせて良かった、担当医の松尾晴海先生は口は悪いけれどとても心の温かい先生で、よく母の部屋をのぞいて気にかけてくれていましたよと看護師さんが教えてくれました。

 いよいよ最後の時が近づき、苦しみもがき酸素マスクの下で助けて下さいと言っている時、私はひたすら頭や額をなで、手を握って耳元で大丈夫、大丈夫と繰り返していました。もし私が苦しくてたまらない時、麻酔や痛み止めを使ったりするレベルでなく、最期の苦しみを自分で引き受け耐えなければならない時、何が救いとなるのか何にすがるのか何を思ったら楽になるのかと思っていました。

 何かの本で読んだことがあるのですが、迫害を受けてくるしみながら神に救いを求めても、神は沈黙していた、そうでした遠藤周作の「沈黙」でした。目も見えなくなり何も聞こえなくなり、感覚もなくなり、でもここを何としても通過しなくてはならない、あちらに行かなくてはならない、迷わないで死んでいくことが大丈夫なんだ、大丈夫。頑張ってでもなく、死なないで、でもなく大丈夫、だから・・

 いつしか苦しみがおさまり、静かな目をして肩でかすかに息をしている母を残して夜いったん帰ることにし、寒い寒いバス停でバスを待ち、風の吹きすさぶ橋を渡っている時、母の心臓は止まりあちらへ逝きました。寒いところで、何かを待ち、何かに乗って橋まで来て、川をわたる。私は母と同じ感覚を追体験していたのです。

 湯灌の時、三途の川を渡るときに渡す六文銭を頭陀袋に入れ母に持たせましたが、それさえ持っていれば川を渡れる、それだけ持っていれば大丈夫。

 施設のスタッフさん、病院の先生、看護師さん、納棺師さん、母にかかわったいろいろな方々の言葉や思いを受けた私が最後に母に心から掛けられる言葉、それはやはり、大丈夫 でした。長い人生を生き抜いた母が、ショートカットでチョコレートピンクの口紅付けて宝塚の男役のようにすくっと立って、歩いていきます。またどこかで大好きな「サンタルチア」を歌うつもりなのでしょう。

 今度は母が私に言っています。   大丈夫よ、と。