肩書

 確定申告の時期が近付いてきたので、去年お世話になった税理士さんから領収書をまとめて通帳と一緒に持ってくるようにと電話がありました。ところがその後母の容態が悪くなり、二週間いろいろかかりっきりで何もできず、やっと落ち着いたのでこれから整理しようと思って前の書類を見ていたら、去年名刺と肩書を作りなさいと言われていたことを思い出しました。日本文化コーディネーターと一応名付け、名刺を自分で作ろうとトライしたところでなぜかやめてしまったのです。ゲストの数が激減したこともあるのですが、LGBTEも含めいろいろなタイプのゲストがくるようになって文化コーディネーターなどと上から目線でものをいう立場でないというか、自分の生き様もさらけ出しながら相手と触れ合うという感じになり、文化への考え方、感じ方などはかえってゲストから教えられることも多くなりました。

 若いころ、イスラエルの哲学者マルティン・ブーバーの ”我と汝”という本に随分影響を受けたのですが、その頃はよくわからなかった”我と汝“という関係が体験をずっとやって沢山の外国のゲストと相対しているうちに感覚としてわかってきたような気がしています。私が、私が何かをする、やるのではなく、あなたという対象物がいてそれにかかわる私というものがあるだけ。

  二年前に幼稚園の同級生と柴又で何十年ぶりにあって旧交を温め合っていたのですが、それから何十回も外国人のゲスト連れて柴又を案内している私を見ていて「この人変わっている!」とみんなに言っているのを聞いて何故そんなこと言って急に離れていったのかと思ったのですが、敏感な彼女は一期一会のゲストに対しての私の没入の仕方が自分に対して以上だったのが理解できなかったし、不愉快だったのでしょう。とはいえ、次から次へと訪れてくるゲストとハグして別れ次のゲストのことを考え出すと、ただでさえ記憶力が衰えている私は後で来るレビューの名前を見てもわからなくなってしまうことさえあります。でも四時間という短い間、私は自分が透明になって相手の中に入りこむためあらゆる努力をしますが、それは言語だけでなく表情なり気配なり呼吸までも感じ尽くしたいからです。同じホスト仲間になんでそこまでするかと言われ、答えられなかったのですが、自分が存在し何かを表現したいならばそのためにはより強い磁場を持つ相手を自分の中に投影したい、それは逃げでもなく模倣でもなく、自分から遠ざかることによって相手が自分の中に入ってくる。

 私が存在するためにはあなたというものが欠かせない、私はいつもあなたの投影であるとするならば、全ての不特定のあなたは同一なのか。ブーバーは「我」それ自体というものがありえないというところから出発し、我がないのなら「我」という存在もあり得ないというのです。自分がなんであるか、自分が表現したいということは何なのか、若い頃から模索していました。自分自身を確信したいがために、自分の好きなもの、できることには努力をしましたが、だからと言って報いられるものではない、努力は無駄になることも多かったのです。これこそが自分のやりたいことだ、これに感動したから自分もしたい、それは自分自身を確信することだったのかどうか。今の仕事は自分自身を表現することではない。自分の欲でもない。対象物、相手の感情や意志を着物を着ることによって、着物を着て柴又を歩くことによって明らかにすること。究極が振袖を着た男の子でした。あの時の混乱した気持ちと相手が自分の中に入っている感覚は忘れられません。自分の感情をあふれさせない。

 語学力が乏しいというのはある意味幸運で、私のめんどくさい思いは必要なときしか話せないし、ほぼいつものパターン化された説明でおわることが多いのです。うちへ帰ると夫が待っていてお茶を入れ世間話をして(英語です!)プレゼント選びを手伝い、簡単な着方まで最近はレクチャーしてます。

 こんな感じの体験をやっていると、私たちのいろんな努力は自分のためではないと思うし、もしかして努力は自分のためではない時正解になるのかもしれません。言葉がわからない、言っていることがわからないから、相手のすべてを感じながらひたすら想像し、相手に尽くす。

 ただ風の音に耳を澄まして。そして何も恐れないで。

 山歩きのガイドをしているゲストが来たことがありました。私のやっていることを理解してくれたような気がしました。いつか、彼のガイドで山を歩いてみたい。彼の感覚の中に浸りたいと思いましす。感情のガイド。日本文化ガイド。今度南アフリカから来るゲストが、spiritual experience を楽しみにしていると書いてきました。うーん、スピリチュアルですか。そうかもしれません。