感動の記憶

 アイルランド出身の小説家ジェームス・ジョイスがどこかで書いていた「イマジネーションとは記憶である」という言葉がずっと頭の中に引っかかっていたのですが、なかなかそこから発展しないでいました。

 昨日日経新聞の日曜欄に鉄道のデザインに関わって30年、国内最高峰の豪華寝台列車「ななつ星in九州」を実現させた水戸岡鋭治さんのインタビュー記事が載っていて、不器用で勉強嫌いだったけれど絵を描くのだけは好きだった彼が大人になって「説明する絵、プレゼンする絵」を目指してデザイン事務所に就職し、建物の完成予想図、ホテルの宣伝ポスター、制服のデザインなどを色鮮やかで美しいイラストを描いていきました。期待値を超えるようなコンセプトを形にするにはイメージの引き出しを多く持つ必要がある、そんな時役立ったのが積み重ねてきた「感動の記憶」だったそうで、故郷の岡山ではよく遊んだ吉備神社や田畑の景色、風の音やにおい、手触りが駆け出しのころに滞在した欧州では美しい街並みや車窓の景色が素朴な感動とともに刻まれたと言います。

 イマジネーション、想像力、そして感動も記憶でした。職人さんでも芸術家でも何かを突き詰めてやるのは記憶の中の何物かを追求しているのでしょう。それを追体験するために集中して誠実に突き進む、そのための努力は惜しまないのです。

 現状維持では未来はないという危機感があったJR九州は、水戸岡さんに日本に前例のない豪華列車を走らせるというけた違いの挑戦に挑んでもらい、リーダーの唐池恒二会長の志を整理するのがデザイナーの役割として、志のあるデザイン、懐かしくてかつ新しい「クラッシック」を表現するため、「面白いと意気に感じて協力してくれた」職人たちと柿右衛門窯の洗面鉢、大川組子の間仕切りなど、伝統をベースにしながら、今までにないものを作ったのです。

 本当にいいものが欲しい、本当に豊かで質の高い体験がしたいと多くの人が考える時代になった、最高のものをつくらなければ次のステップには行けない。世界に一つしかない最高のものをつくれば、その過程で得られた経験知が社内全体に広がっていく。それによって会社のレベルが上がっていく。リーダーが明快な方向性を出して、理想を掲げて突っ走る姿を見せれば、みんなそれについていくんですと彼は言います。他人を信頼することは難しいし、信頼は目に見えるものではない。しかし、その信頼を言葉や行動で示すことができるのがリーダーであり、その信頼に懸けていくところに、ロマンと希望と勇気があるし、それらがあれば、とんでもないものを生み出すことができるのです      

  でもそんな中で、本当の難しさは自分の中にあるといい「自分にこのデザインができるんだろうか」という不安に打ち勝ち、自分で問題を解決し、自分で納得する。それができなければ、相手に理解して納得してもらうことはできない。一番大切なのは、自分の中にある問題を解決するための体力、気力、知力です。

 目先の利便性と経済性にとらわれず、将来まで使えるもの、時代を超えても感動が残るもの、多くの人の心を豊かにできるものをつくる。それが「正しいデザイン」です。年を重ねるごとに、デザインに必要なことは「美しさ」よりも「正しさ」、「大きさ」よりも「小ささ」、「強さ」よりも「弱さ」、「明解さ」よりも「曖昧さ」であると感じるようになってきました。日本人本来の価値観に近づいているのだと自分では考えています。世界との競争に入っていく中で価値観を変えなければならなかったのは、日本にとって幸せなことばかりではありませんでした。日本人の昔からの価値観を大事にすれば、多くの人がより心地よく、楽しく、豊かになれるデザインができると思っています。

 人間は、不都合を受け入れれば受け入れるほど、能力が伸びていくと思うし、都合の悪いことを克服することで、それまでの自分にはなかった発想、言語、スキルが身に付いていく、だから、成長しようと思ったら、どんどん不都合を受け入れていかなければならない。能力を従来以上に発揮すれば、作業時間は短縮されるので、その分コストも引き下げられます。メーカーや職人などが、それぞれのセクションで能力を最大限発揮して新しいやり方を見付けていけば、コストはもっと下がるし、そこで培った新しいスキルは、そのまま資産として蓄積していきます。メーカーや職人自身のソフトになるんです。そのソフトは、ほかの仕事でも確実に活用できるでしょう。つまり、難しいと思われる仕事にかかわることによって、結果的には能力の開発になるわけです。デザイナーは、そういうところまで考えながらデザインをしていかなければならない。そういつも考えていますと水戸岡さんのインタビューは締めくくられていました。

 イマジネーションも感動も記憶なのでした。豊かな記憶は人の心を幸せにし、そして生涯支えてくれるのでしょう。