聖ロザリア    Santa Rosalia 

 今朝イタリア語テレビ講座を見ていたら、ナビゲーターがシチリア島のパレルモにあるペッレグリーノ山の洞窟教会を訪れていて、そびえたつ山の岩肌を削って建てられたわけが語られていました。17世紀ペストが大流行して人口の3分のⅠが死んでしまい絶望的な状況にあった時、聖ロザリアのこの山に自分の遺骨があるというお告げがあり、その聖遺物とともに街で宗教行列が行われたところペストが一気に収まり、それを記念して教会が建てられ、今も信仰の厚い参拝客が訪れているそうです。

 コロナウィルスの蔓延が一番のピークを迎えている今なので、この聖ロザリアの話が胸に迫ってくるのですが、柴又帝釈天の板本尊も同じようなシチュエーションで信仰されてきたものでした。これからどのように収束していくか四つのパターンがあって、

①ヒトがウィルス攻撃に敗北する   大勢の人が亡くなり、ウィルスも人と共倒れになる。

②ヒト側の攻撃にウィルスは敗北して絶滅する。

③ヒトとウィルスが和平関係を築く。 体内には常在菌として居候を決め込む莫大な数の種類の「和平組」が存在している。

④ヒトとウィルスがそれぞれに防御を固め、果てしない戦いを続ける。   インフルエンザウィルスなど

だそうです。人間の戦争のようですが、和平関係を築くため、あらゆる知恵を持って研究していくしかないのではないかと思っています。

 手塚治虫のブッダを読んだ時一番印象深かったのが池のカモの話で、火山の噴火で住んでいる池に餌が無くなった時、あるカモたちはえさを求めて遠くへ旅立ち、あるカモたちは人間に飼われて餌をもらおうとしたのですが、最後まで生き残ったのは、何もない池でじっとうずくまって耐えて耐えて忍んだカモたちだけでした。じっと耐え忍ぶには相当の胆力と、それを支え切る思惟が必要です。心の持って行き方、強い正しい意志がないと、長丁場は乗りきれません。

 イタリア語講座の後の「にほんごであそぼ」という子供番組では三好達治の”土”という短い詩が朗読され、ロバートブラウニングの”春の朝”をカタツムリの滑り台の前で文楽界の第一人者の方々が人形浄瑠璃のように語り、かと思えば「人生の意味より、人生そのものを愛せ」というカラマーゾフの兄弟の一節が名文カルタのゲームにでてきたり、最後は清少納言の枕草子の出だしの”春はあけぼの・・・”を暗唱する五歳くらい?の子供がでてきたりして、65歳の私が知らないことばかり出てきて、今ネットで調べてあらためて感動しています。何にも知らないで、というか世界はこんなに複雑で面白いのになぜつまらない生き方をしてしまうのだろう、この番組の監修の斎藤孝さんの人間力に感服しながら、子供たちが教養というものを純粋に楽しみながら体の中にため込んでいけば、いざという時の胆力になっていくのではないかと思います。危機に際しても、どんなに理不尽な仕打ちをうけることがあっても、何とか耐えていけるだけの基礎をもっていないと、、このコロナウィルスも乗り越えられない。

ロバートブラウニングの春の朝の英文です。


The year's at the spring,   The day's at the morn;    Morning's at seven;   The hillside's dew pearled;
The lark's on the wing,               The snail's on the thorn;           God's in His heaven,             All's right with the world!

時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、 蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し

 

共に生きていく価値観とか、物事の本質に向き合い、原点から考え、そして考え抜いて戦うことができ、文化を感じられる感性を持ち、答えを出すだけではなく、問いは何かを考えていくことが今一番重要なのだと思います。