ラオスに一体何があるというのですか?

 これはずいぶん前に買った村上春樹の紀行文集のタイトルで、ボストン、アイスランド、ギリシャ、フィンランド、ポートランド、ニューヨーク、そしてラオス、最後に熊本へ行った時の旅行記で、この二十年くらいの間に彼が訪れた世界のいろいろな場所について書いた原稿をまとめたものです。今まで面白い旅行、印象に残る旅行をたくさんしてきたけれど、旅行記は旅行の直後に気合を入れて書かないとなかなか書けないものだそうで、「秋のプラハの街をあてもなく歩き回ったこと」「ウィーンで小澤征爾さんと過ごしたオペラ三昧の日々」「エルサレムでのカラフルで不思議な体験」「夏のオスロで過ごした一か月」「ニューヨークで会ったいろいろな作家たちの話」「スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラでのディープな日々」など、しっかり書き留めておけばよかったと思っているとか、でもそれらは彼の作品の根底に流れているものの中に、きっと混じっているのでしょう。

 世の中が普通に動いていてどこにでも旅行に行ける時期には何とも感じなかったこの旅行記の題名に急に惹かれたのは、少し遠くのスーパーまで行こうと周りの花々を眺めながら歩いている時で、さくらの咲き始めから満開、そして花吹雪となり散っていくさまもじっくり見たし、葉桜になった後、今度は蕾だったつつじが咲きだし、その一つ一つにまで目が行くようになったのですが、要するに何もできない時間がたくさんあることが、村上さんが旅先で、何もすることがない、無為の時間を過ごしている時の述懐とオーバーラップしてきたからなのです。

 ラオスのルアンブラバンという街でのんびり寺院を巡って時を過ごしながら彼が思ったことは、「普段日本で暮らしている時、僕らはあまりきちんとものを見てこなかった。何か一つのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。でもここでは、自分で見たいものを見つけ、それを自前の目で時間をかけて眺めなければならない。そして手持ちの想像力をそのたびにこまめに働かせて、いろんなことを先見抜きで観察し、自発的に想像し、取捨選択しなければならない。そして自分自身のかけらみたいなものを、ちょっとずつ拾い集めていると、なんだか不思議な気がして、世界は途轍もなく広いはずなのに、同時に又、足で歩いて回れるくらいこじんまりした場所でもあるのだ。」

 もともと私は旅行には縁のない生活を長いことしていましたが、エアビーの仕事するようになってからたくさんの国の方々と触れあうことができ、そしてすべてが停止となった今はこれまで来たすべてのゲストの振り返りと、強く印象に残った方へのメールを送ることを毎日やっていて、状況は一緒なので彼らはいろいろなメッセージを返してくれます。世界という広い枠組みが、今は途轍もなく密接な空間となり、コロナウィルスへの脅威という同じ感情を共有している私たちが出来ることはなんなのでしょう。コロナは敵ではなく、メッセンジャーでありイデアである気がしてきているのですが、私たちがとことん変わらなければ彼らも変わらない気がしています。

 ゲストに"Do you remember me?"という出だしのメールを送って、”Of couse"など、いろいろな言葉が返ってくるのですが、彼らがうちで体験したことは、いくつかの光景の記憶であり、でもその風景にはたとえば抹茶の匂いがあり、柄杓から茶碗に注ぐ湯の音があり、絹の着物を着た時の肌触りがあります。お寺の庭園や回廊を回った時の特別な日の光、川の土手に上がって受けた特別な風、一生懸命しゃべっている私の声、何かがわかり合えたと思ったときの心の震え、それが彼らの中に鮮やかに残っているような気がします。私もこうやってたくさんのものを受け取ってきた、だから今限られた場所しか行けないけれど、そこの風景さえ今までとは全く違ったものに見えるのです。もしこんな事態にならなければ、今までと同じ生活をせわしなく送り、どこへ行きたい、何をしたい、とあくせくしていたでしょう。今こうなっていることの意味を考え続けなければならない。

 ラオスに一体何があるというのですか?(そんな何にもないところへ行ってどうするの?)  これはコロナ前のあるベトナム人がラオスに行くという村上さんに問いかけた言葉です。観光地なら世界中に沢山いいところあるでしょうに、そこへ行かなきゃ損ですよ。  そうやって沢山の人たちが世界中を旅行していました。だから私が住む東京のはずれにあるこの街だって、来る価値があるかどうか怪しいものでした。この本の中で村上さんは仕事で訪れたアイスランドのフィヨルドの光景を目の前にした時、写真にとることさえはばかられる風景は、その広がりと恒久的な静寂と、深い潮の香りと、遮るものもなく地表を吹き抜けていく風と、そこに流れる独特の時間性とその心持を、できる限り時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込むこんで行こうと思ったのです。

 ラオスに一体何があるのですか? コロナ以後、私たちが見るものはなんなのでしょう。暗闇の中だからこそ見える光をと、羽生選手はいっていました。光、星、月、太陽、自然・・私たちはあまりに多くのものを壊そうとしていました。寺のライトアップ、プロジェクトマッピング、花魁道中。悪気はないにせよ、やってはいけないことをやってきました。

 ラオスに一体何があるのですか?  静かな信仰と祈りと静謐と、そしてただ、光があるのでしょう。