にほんごであそぼ   Play with Japanese

 若い女性作家の金原ひとみさんがしばらく家族でパリに暮らしていて、六年ぶりに日本に帰ってきて辟易したものの一つにバラエティ番組やワイドショーの低俗さと言っていましたが、この非常事態のさなかではその声高なトークを聞くだけでもおぞましく、哀しくなります。金原さんの新刊本”パリの砂漠、東京の蜃気楼”をネットで見ていたら、「フランスでは、酒瓶を持った男性に娼婦呼ばわりされようが、感じの悪い店員や不動産屋に邪険にされようが、蠅が飛んでいる程度にしか感じなかったのに、日本に戻って以来日常が穏やかすぎる故の、刺激への耐性の低下で、自分が外部からの刺激に過敏になっているし、もっと強烈に、生きているだけで四方八方から侵害されているような閉塞感がある」とあって、彼女はそこから、だから自分は生きていたくないと続けていくのです。

 長期戦になった「Stay Home]ですが、引きこもり体質の私は、刑務所にいてもできる体操とか、語学学習とかで生活を組み立てられるし、着物の整理や片付けで何とか一日暮らせます。しかし昨日は下痢(スペインのオリーブを6個食べて!)していたせいもあって、気持ちが暗くて困ってしまい、久しぶりに日本の方にラインして、元気をもらって気持ちが明るくなりました。

 そして今朝、テレビ体操してから「にほんごであそぼ」という10分の幼児番組見ていたら、まず「ごもじごもじ」というコーナーで俳句の紹介があり、そのメンバーが松尾芭蕉、小林一茶、種田山頭火、山口誓子、与謝蕪村、加賀千代女・・良く知っている句ですが、これは幼児番組なのに・・と驚きました。子供のころの記憶というのは、終生残ることもありますが、人それぞれの生き方や感性を「ごもじごもじ」に込めて作ることの凄さを感じるし、娘の仕事の関係で、根岸の正岡子規庵にいったことを思いだし、才能と精気に満ち溢れた子規が病に伏し、最後は動けなくなって、病床から見上げる藤の花の俳句を詠んだ大食漢の彼の最後は何だったのだろうと感慨にふけっていたら、ラストがもっとすごくて、論語を歌にして、みんなで楽しく歌っているのです。なんじゃこりゃ!

 コニタンこと元力士の小錦が子供たちと綺麗な声で歌う「吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑はず 五十にして天命を知る 六十にして耳順(したが)ふ 七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」の言葉。子供たちがこれを聞いて、その意味を質問したら、親やじじばばは答えられるのかしら。受験勉強で習った、試験に受かるために勉強した、そのくらいしか私たちの世代は今までは答えられなかったのですが、今のコロナ禍の只中を乗り切り、コロナ後の再生の時代を生き切るためには、これからのこういう学びが必要だと、この番組の監修の斎藤孝さんはわかっているのです。心の余裕となる文化の積み重ねがなければ、人を責めたり罵るだけで前へ進めず苦しくなる気がします。

 イギリスのLoisの自然に対する考え方が何処から来るのかと思っていましたが、”羊飼いの暮らし”というイギリスの小説を読んだ時、「直接的にしろ間接的にしろ、意識的にしろ無意識的にしろ、環境に対する個人の考え方や姿勢というものは、文化的な要素に影響を受ける」という文章があって、そうか、27歳のLoisは何かの文化的な要素に影響を受けてきて、そして今こういう風に生きているのだと納得しました。現代の産業世界が「どこかに行くこと」「人生で何かを成し遂げること」にとりつかれ、殺伐としているのは文化的な要素の欠落なのかもしれない、幼少時から豊かな文化的要素が与えられてきたら、人間はもっと複雑な考え方をし、いろいろなものを大事にしていけるのかもしれないと思います。

 ”にほんごであそぼ”の中で繰り広げられる日本文化は、新しい感性で新しいアレンジを加えられ、65歳の私が見ても凄いと思うもので、なんと今日は、文楽の人形を持って、桐竹勘十郎さんがゴーカートに乗って演じているのですから。狂言の野村萬斎さんは物凄いコスチュームで宮沢賢治の風の又三郎の一節をロック調で歌っているので、私の頭は混乱するけれど、幼児だったらキャッキャッと喜んで飛び跳ねるのかも知れない、そんな記憶が残っていれば後で文学や伝統文化に触れるときに入り込み、紡ぎ出すものが出てくるかもしれないのです。豊饒な記憶。記憶は文化である。

 無表情で無感動な親世代(子供たち)、祖父母世代(私たち)が主流を占めている現代ですが、エアビーの仕事を始めてから、特に日本人の方々の無気力さ、浅薄さを猛烈に感じ、良くも悪くも外国人のバイタリティーを好ましく感じていたのですが、そのグローバリズムもこのコロナウィルスの前には沈黙せざるを得なくなってしまったようです。

 エアビーも従業員を四分の一カットするとのこと、これからどうなっていくのかと思いますが、私はこれからは「一対一」路線でやっていこうと思い始めています。今までいろんなパターンがあり、大勢の時はいろいろな国のゲストがワイワイと集って、それはそれで楽でいいと思っていました。でも今メールをして状況を聞いているゲストは、楽をしてしまったときのゲストではないのです。直接しっかりとコミュニケーションをとっていないと、あとが続かないし、どんなゲストだったかもわからない。わからないで生きていたら、このようにコロナウィルスが現れてもどうしようもない、私達は個人で生きるしかないということを忘れてしまった、倒れても誰も助けてくれない、頼りになるのは自分だけということをいつも考えて、自分のなかに取り込めるものはすべて取り込む、自分の本能や嗅覚、感性を研ぎ澄ますための刺激はすべて受け入れ、何かの救いと落ち着きが訪れるよう努力していかなければなりません。

 昼ごはん食べながら主人と「駅ピアノ」という番組見ていて、今日はイギリスのグラスゴーの駅に置かれているピアノを様々な年代の人々が弾いているのですが、みんなうまくてカッコよくて独学で祖父母に習ったという若者もいるのです。面白いのは、そばを通る人々がが一向に関心を示さずサッサと行きすぎることで、自分は自分、個々の意識が強いから、だからみんなそれぞれあんなにピアノが上手いのでしょう。

 そういえばグラスゴーから来たゲストがいましたっけ。イギリス人は皆それぞれ個性が強い、トランスジェンダーの高校生がピアノを弾いて、それを取り囲む女の子たちが応援しているのを見て、同じ立場だったゲストのマックスを思いだしました。予約してうちに来る決心をするのも大変だったでしょう。

 エアビーの私の体験の紹介文を変える時が来ました。じっくり作っていきます。