危険な暑さの中で  In the dangerous heat

 毎日暑いのですが、今日は朝から強烈に熱い気がします。クーラーを入れないととても寝て居られないのですが、もし停電したらどう生きていけばいいのかと思うと、夜涼しく寝られることが有難く、何処へも行けなくても心地よい精神状態でいられることを感謝しています。何が大変だと言って、気持ちがへこむことが一番つらいのですが、「世界は今」というドキュメント番組見ていたら、ブラジルで高齢の両親(と言っても私たちと同じ年でした)と住むカウンセラーの仕事をしている女性が、食事は別々だし遠くで働く薬剤師の娘が帰ってきても絶対両親と会わせないとか、そういう気持ちの分断が一番つらいと言っていました。どんなに生活がきつくても家族みんなで働き貧しい食事でも分け合って身を寄せて暮らすことが、本当にできなくなっています。宗教行事もできない、お盆にも故郷に帰れない。コロナで閉じこもっているよりも、黒人差別反対のデモに参加している方が嬉しいと言った日本とアフリカ系アメリカ人のハーフのダンサーの女の子がいましたが、これは一種の刑罰のような気がしてきました。

 ゲド戦記という本の中に「持つに値するものはたった一つしかない。何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ」「ろうそくの灯りが見たいなら、そのろうそくを暗い所へ持って行くことだ」「そなたが売ったのは、そなた自身の自己だ、内なる闇と向かい合って、世界の均衡を回復する」という賢人の言葉がありました。世界の果てまで旅して世界の終りとは何かを考えていた賢人の言葉は、ずっしりと響きますが、私たちは何かを得ようと右往左往するのではなく、今そこに置かれたものを受け入れることが大事で、選んで暗い場所に行き、光を見て何かを得て、世界の均衡を獲得することが大切なのかもしれません。

 三月に買った抹茶が残っていて、香りもないので濃茶を練る稽古に使おうと、苦手だった五人前の濃茶をやることにして茶杓で15杯!茶碗に入れ、初めは柄杓一杯のお湯を入れて、だまにならないように静かに混ぜてお湯と馴染ませてから練り始めます。どこまでやればいいのか加減がわからず、迷う所なのですが、前に先輩が濃茶点前していて、延々と練っていてこんなにエンドレスにしなければならないのかと思って見ていました。でもそのお濃茶を飲んだ時とてもまろやかで美味しかったので、それからは延々と練ることを心掛けていますが、これからは濃茶の回し飲みは禁じられるのではないか、そうしたら一人一人に出す濃茶点前になるのかもしれません。

 長年培われてきた決まりや作法も、これからは全く違ったものになってしまうのかもしれない。伝統は大事だとは思いますが、ソーシャルディスタンスなど考えると作法そのものがコロナの前にはうまく機能しない気もします。心地よいお点前で、美味しく安全にお抹茶が飲めるように心がければよいのでしょう。一人暮らしのお茶の先輩は、毎日少しでも違った気持ちで暮らせるよう工夫して過ごしているし、奥様亡くして一人暮らしの家の前の電器屋のおじちゃんは、そっと涼しいところに避暑に行って白樺の林を抜ける風に吹かれながら静かに本を読んでいたいというし、欲もなく得も無く、自分の身の丈に合った平安を保つためいつも穏やかに働いている姿を見ていると、見習わなくてはならないとつくづく思います。