魂のかたち   Shape of soul

 二晩続けて夫が夜飲みに出かけていなかったので、静かに前に録画した番組を見ていたのですが、このところいろいろな音楽家の演奏を聞きながら、表現することとはどんなことなのだろうかと考えて居ます。小さい頃のピアノの発表会とか、コーラス仲間と出た独唱の発表会とか思い出しても、技術の拙さはともかくどう感情を表現するかということが私は本当に下手でした。(それにしても取り柄の少なさに今更ながら驚きます)天才と呼ばれるピアニストたちの日頃の練習のハードさに息を呑みながら、それでも聞く時に私は傲慢にもいろいろ批評し、聞き比べてしまうのです。最近はマルタ・アルゲリッチや辻井伸行さんの演奏を良く聞くのですが、ドレスやスーツを着てホールで演奏するのを見た後で、また「戦場のピアニスト」の映画を見て、シュピルマンという主人公のピアニストがボロボロの服にボサボサの頭で飢えに苦しみながらどういう気持ちでショパンのバラードを弾いていたのかと考えて居ました。長いこと弾いていないから手も動かないだろうし、何よりも敵の将校の前で弾くということはいつピストルで頭を撃ち抜かれてもおかしくない状況です。何も考えられないような頭で、体に染みついた曲をただ弾く、技術を尽くした演奏、ただそれだけ。ただ弾くだけ。

 私は何に感動するのだろうと思った時、このピアノを弾いている彼の魂が見えていたからだと気がつきました。魂は見える瞬間があるのです。ゲストと過ごした時間に私はたくさんそれを見ました。没我。ゾーンに入る。いろんな言い方があるかもしれないけれど、少しでも傲慢な想いがあればそれは現れない。このピアニストが限界の境地で弾いたような恐ろしい時代はもうこないだろうと思っていましたが、そうではなく、今もある事態に向かって世界は突き進んでいる気がします。

 昨日美容院で働いている若いお母さんと話していて、小学校に上がった息子さんがいつもマスクをしなければならず、運動会などの行事もできず想い出を残してあげられなくて可哀そうだけれど、本人はわからないからそれなりに楽しんで暮らしていると言っていました。親が育ってきた時代や環境によって育てるときの考え方もずいぶん違います。私の親世代は第二次大戦の時青春を迎えていて、戦死や爆撃が日常茶飯事だった時代でした。私たちはなんでも好きなことが出来る平和な時に穏やかに働き子育てをし、そして孫世代、うちは孫がいませんが、あまり悲しくもないのは、私自身が子育てをしていた時これでいいのかととても悩んでいたからです。頑固な義父と同居だったため、締め付けも束縛も普通のうちよりは激しかったけれど、我慢するとか何とか工夫して逃げ道を探すとか、人とは違う感情を味わってきたことが今役立っているし、それが人と違うと言われる理由なのかもしれません。

 地球環境はもっともっと恐ろしい方向に進むかもしれず、運動会が出来なくて可哀そうと言っている事態ではなくなるかもしれない、そんなことを考えていたら、エアビーからオンライン体験をぜひやってほしいという依頼がきました。着物や茶道、柴又巡りなどをする私の体験はオンラインは無理だと初めから諦めていましたが、体験のレビューなど読んでくださったスタッフの方から、今この時代だからこそ、世界中のゲストに日本文化の在り方を知ってほしいと言われ、今やっているのはブログを書くことだけなので、やることが与えられたら従っていく方が良いと思っています。さあどういう風に取り組めばよいか。やってみましょう。