茅の輪くぐり

 コロナ感染が収まらず、秋のいろいろな行事が中止になっていますが、近くの天祖神社も今年は二年に一度の神輿渡御(みこしとぎょ)がなくなり、代わりに「茅の輪(ちのわ」を境内に設置したので、それをくぐり絵馬を奉納して無病息災を祈念して下さいとのお知らせが来ました。息子が地元で少年野球をやっていた縁で一度子供神輿を担ぎ、私も付き添いで町中練り歩いたことがありましたが、今は農業をやっている人も少ないし、収穫祭のお祭りという感覚もないし、決められたコースを延々と担いで歩き、そこかしこの休憩所でお菓子をたくさんもらったという記憶があるだけです。

 神輿渡御をする理由は神様が神輿に乗って街を練り歩き、大きな力を振りまいて人々の災いを清めるためだそうです。そして練り歩きの時神輿を激しく揺さぶるのは、さらに神様の力を高めて豊作や大漁を願う理由があり、人より高い位置で担ぐことで神様を尊敬する気持ちを表しているのです。悲しいことに、今までそんなこと知らなかったし、お菓子や屋台や沢山よそからやって来るプロ集団のような担ぎ手の熱気とカオスに酔いしれて興奮していただけなのでした。そして今年このようにあらゆるものが中止になった時、突然体験できるようになったのがこの「茅の輪くぐり」です。

 これは日本神話に由来し、スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた備後の国の蘇民将来との逸話が起源です。貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福なのに宿を貸そうともしませんでした。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来の元を訪れ、「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えました。教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のように茅の輪をくぐり抜けるものになったと言われています。

 宿を貸さなかった弟は難を逃れられなかったのかしらと思いながら、こういうことを戦後生まれの私たちは知らないで育ち、今マスクをして学校行っている子供たちが身をもって難を逃れたいと念じながらこの茅の輪を真剣な思いでくぐっていくのです。同封されていた紙の絵馬に何と書こうか考えて、ふと徳川家康が方広寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻んであることに激怒したことを思い出し、またおととし来たアメリカの女の子が秀吉マニアで豊臣の五七桐の家紋の模様の付いた黒い帯を喜んで締めていたことにも刺激を受けて、「国家安寧」Public Peaceと書いて奉納しました。時々ゲストの日本に対する知識の深さや興味のもち方に圧倒されることがあり、私は若いアメリカの男の子に" Do you like Shinzo Abe?"と聞かれたし、夫はイタリア系のアルゼンチン人のパパと、皇室について話し合ったことがありました。ゲストの外国人たちには英語力云々ではなく思想とかポリシー、生き方をストレートに問われると、最近は強く感じています。

 先だって七五三の打ち合わせでやってきた七歳の女の子が、コロナでいろいろ制限された生き方しているのに、元気で好奇心と才能が旺盛で、お母さんの着物の帯に合う帯揚げ、帯締めを選んだり、置いてあった花瓶に造花活けたり、物おじせず動き回っているのに私は驚きました。これからの世界でたくましく生きていけるタイプは混乱と制限の中から生まれてくると思いながら、こちらも負けないで文化や歴史などの生きた知識を与えられるようにしなければならないし、外国人が来られなくなったら日本人にいろんな機会を見つけて着てもらえればいいし、ちゃんとそういう巡り会わせが出てくるものだと感心しています。

 最近の「にほんごであそぼ」は、論語特集で、「人知らずして搵(うら)みず、また君子ならずや」という言葉を私は今覚えました。人が自分のことをわかってくれないからと言って腹を立てないのが一番だということだそうです。夏目漱石や正岡子規が子供の頃漢文の素読を学び、めきめき才能を表したといいますが、本当に学ぶべきことはたくさんあります。制限される中で何かをつかもうと出来るのも、また才能なのでしょう。茅の輪をくぐった子供たちは、神話を知らず、敬遠する大人たちよりすでに多くのことを学びつつあります。