掃除婦のための手引書  A Manual for Cleaning Woman

 これはルシア・ベルリンというアメリカの女性作家の小説なのですが、コロナ前に新聞の書評で絶賛されていて、そのタイトルも気になって図書館で予約したら何と58番目!、どれだけ待つのかと諦めていたらコロナウィルスが蔓延して自粛生活やステイホームになり、その間みんな一生懸命読んでいたのでしょうか、9月末にやっと私の番になりました。日本でもこんなに人気になるのはなぜかと思いながら、波瀾万丈の彼女の人生が、切り口の良い文章で鮮やかに描かれている沢山の短編を読みました。

 ルシアは1936年アラスカに生まれ、鉱山技師だった父の仕事の関係で幼少期より北米の鉱山町を転々とし、成長期の大半をチリで過ごします。三回の結婚と離婚を経て4人の息子をシングルマザーとして育てながら、高校教師、掃除婦、電話交換手、看護師として働きますが、一方でアルコール依存症に苦しみます。腕のいい酒浸りの歯科医の祖父や、やはりアル中で自殺未遂を繰り返す母、薬物中毒だった三番目の夫など個性的すぎる家族の中で紆余曲折の多いカラフルな彼女の実人生に材を取った小説は、切り取る場所によって全く違う形の断面になる多面体のように、見える景色は作品ごとに大きく変わります。そして彼女にしか持ちえないような目と耳との鋭さによって、彼女の言葉は読む者の五感をぐいとつかみ、強いその握力で有無を言わさずその小説世界に引きずり込むのです。むき出しの言葉、魂から直接つかみ取ってきたような言葉に揺さぶられる。

 アメリカの短編作家リディア・ディビスも、ルシアの小説は帯電していてむき出しの電線のように、触れるとピリッとくるし、サプライズに満ちていて、読み手は頭と心を通してだけでなく、五感を通しても物語を体験することになる、そして、事実を捻じ曲げるのではなく、変容させた優れた小説を読む喜びは、事実関係ではなくそこに書かれた真実に共鳴できた時なのだと言っています。

 それにしても日本人の私が波瀾万丈のルシアの人生になぜ魅かれたのか、というか、キーワードは”掃除婦”という言葉で、前に日本の大学に留学していて日本語の堪能な20代後半の美しいケイリーとその姪の19歳のアビーが着物体験に来て、大柄なアビーが職業は掃除婦と言ったことにびっくりしたことがきっかけです。アビーは日本語を勉強していて、看板や標識を片っ端から私と二人で読みながら歩き、そのほかのことはほとんどしゃべらず、どうして掃除婦なのかも聞けなかったのですが、柴又歩いてたくさん二人の写真を撮り楽しく時を過ごしました。でも日本語堪能なケイリ―の顔が沈みがちなのが気になっていて、お酒はモルモン教だから飲まないというし、日本に長いこといたから色々感想や印象もあるでしょうに、会話が弾みませんでした。

 うちに帰ってきて浴衣を脱がせていたとき、ケイリーが突然日本語で「私の祖先はアメリカンインディアンなのです」と言い出し、私も夫も何といっていいかわからず、リアクションもできず、固まってしまったのですが、西部劇で見るインディアンのイメージしかなく、そのまま別れました。その後ネットでいろいろ調べてみたら、<インディアン寄宿学校>というものがあって、両親から強制的に取り上げられ100㌔以上も離れた異郷の地で5歳から10歳の子供たちは部族語を話せば体罰を受け、ホームシックにかかっても罰を下され、白人家庭で役立つような職業訓練や、白人のやるような遊びを教えこまれ、強制的にキリスト教を仕込まれて部族の宗教は禁止されました。彼らはインディアンとしてのアイデンティティを剥奪され、そのままインディアン居留地へ送り返されるのですが、結局部族語も話せず、訓練した技術を生かすような仕事も居留地にはなく、社会に出ても行き場を失い(居留地から出ることを許されない)「僕たちはインディアンでも白人でもない」と悩んだ結果、アルコール、薬物中毒になる若者が増加、自殺者も多く出たのです。

 近代インディアンの子供たちにおけるもう一つの悲劇は、<インディアン児童福祉法令>というもので、貧困に陥っているインディアンの両親のもとから、出生前に選別された乳児を強制的に取り上げ、白人家庭に里子に出すというものです。白人として育てられるけれど、見た目や血筋から受けるのは、インディアンだという差別だし、一方でインディアン居留地の人びとから見れば、白人世界で育った異端者です。
 そしてこの政策は今も実行されており、現在も強制的に親から引き離され、白人のもとへ連れていかれる、そんな子供たちがいるのです。19世紀末、それまでは動物と同じく扱われていたインディアンはようやく法的に「人間」と認められ、20世紀になり第二次世界大戦において国家に貢献したことを背景にインディアンたちは立ち上がり、教育も受けずスラム育ちの若者たちが起こした運動は<レッド・パワー>と呼ばれ、そして1969年から1974年まで大統領になったニクソンは、インディアンのバスティーユと呼ばれるBIAのインディアン保留地解体を命じますが、ウオーターゲート事件で失脚して、インディアンは苦境に立たされることになりました。現在もアイデンティティを剥奪され続けている彼らは、500年以上にわたる長い長い差別の歴史と民族浄化や同化政策で打ちのめされて、現在も存在するインディアン居留地の中で、貧困の只中に放り込まれているというのです。

 ケイリーやアビーが何処に暮らしてどういう立場にいるのか想像もつかないのですが、ユタ州に住み制約の多い宗教を持ちながら、外国で勉強でき海外旅行もできる環境にあるということは恵まれた環境にいるのでしょう。本当に世界を見渡すといろいろな残酷な歴史があるのですが、掃除婦の手引書を書いたルシアのように、自分の生い立ちや素質で波瀾万丈な人生を送った人もいます。(実際、彼女の小説にはコインランドリーでいつも一緒になる飲んだくれの老インディアンの話や、アル中、薬物など、あらゆるものが出てくるのです)今世界は大きく変化しています。私に出来るのは、ただ彼らのことを思って、自分の中に積み重ねていくことなのです。

 昨日テレビで子供にも外国人にも大人気の「鬼滅の刃」を放映していて、二時間じっくり見ていた夫が「鬼というのは自分に中に在るものなのかなあ」とつぶやいていましたが、家族が殺されたりすさまじい鬼と戦うシーンが延々と続いたり、リアルで激しく、なぜこれが子供たちに人気なのか不思議な気がします。時代は切羽詰まっているのだから、己を鍛錬し、鼓舞せよということを本能的に悟っているのかもしれません。コロナウィルスはすべての人を同じスタートラインに立たせている気がします。真剣に、誠実に、スタートしないと、子供たちに抜かれてしまいます。