明日になれば Tomorrow We Will See

 十日前の産経新聞に、渋谷のセルリアンタワー東急ホテルの能楽堂で、今年8月にレバノンのベイルートで発生した爆発事故の被害者に祈りを捧げようと、事故から2か月後の今月4日に能のチャリティー公演が行われたという記事が載っていました。仙台に住む母方の叔母がずっと謡を習っていて、東京での発表会出るたびに私と娘で留袖や袴の着付けをしていたのですが、このセルリアンタワーの能楽堂にも行ったことがあり、豪華な新しい能楽堂です。コロナ以後は能公演もなかなか行われなかったのではないかと思っていたので、高円宮久子様も来場されたというこの公演の主催者を見たら、梅若猶彦氏と奥様のマドレーヌさんでした。

 マドレーヌさんが書かれた「レバノンから来た能楽師の妻」という本を感動して読んだのは昨年でしたが、それからコロナ感染が世界中に広まって自粛生活している時に起こったレバノンでの大爆発事故について、哀しいことに私にはその記事を読んだ記憶がないのですが、今改めてその凄まじい爆発の映像や死者や負傷者の数を知り、原因も事故か破壊工作かとか書かれているし、デフォルト(債務不履行)と反政府デモの混乱が拡大するレバノンの絶望に追い打ちがかかったとあります。人種のるつぼとして紀元前5000年前から様々な民族が侵入したため、国内には18を超える宗派や宗教が存在してそれが政党やイデオロギーの違いとなり、後にはイスラエル・パレスチナ紛争も関与して、政情不安は続き、人々は戦火を逃れて世界中に散り散りになりますが、コンピューターサイエンスを学ぶため英米の大学で学んだマドレーヌさんは日本人と結婚したお姉さんがいる日本に来て、同級生だった能楽師の梅若猶彦さんと結婚するのです。お子さん二人を育てながら能の海外普及に尽くし、猶彦氏はバチカン宮殿で「イエスの洗礼」という新作能を上演したり海外の大学で能楽を教えたりして異端の能楽師と思われながら今日まで地道な幅広い活動をされています。

 今、この時期に、あのセルリアンタワーの能楽堂で、能の伝統的な演目「石橋しゃっきょう」をレバノンの被害者に祈りを捧げるため演じる、このご夫婦でなければできないことです。英語に堪能で、能を演じるため過酷なまでの自己鍛錬を己に課し、学者として能楽の研究に励み、海外の大学で学生に能をレクチャーし、キリスト教やシェイクスピアの新作能や、他分野とのコラボ作品を作り海外で上演し、奥様は大使館や幅広い交友関係を通じ、海外での公演や大学でのデモストレーションをして能に関心を持ってもらうために奔走してきました。能という優れた文化への畏敬と傾倒、レバノン人であるという誇りとアイデンティティを持って子育てをしたマドレーヌさんはバイリンガルとしてだけでなく、バイカルチュラルとして育ってほしいと願い、子供たちは自立することの大切さを知り、独創的なアイディアや才能を求め、自分の強みや夢中になれることを見つけて、創造的な表現手段を得ていますが、バックボーンには三歳からの能の修行があるのです。マドレーヌさんに、能は素晴らしい文化なのに、大抵の日本人は興味がないでしょうとさらりと言われてしまいましたが、私は能が好きで若い時から見たり、叔母の着付けするようになって楽屋に入るようになってからは、高名な能楽師を見てドキドキしたりしていました。でも、能を本当に鑑賞していたかどうか、マドレーヌさんのように能ならではの静けさ、優美さ、詩情あふれる物語をまず味わい、能楽師が伝える情感を感じとり、不思議な陶酔の境地にいざなわれたかというと、それこそ眠気の方がかってしまう方が多かったのです。それでも鼓の亀井広忠さんの会での迫力ある舞台や、叔母の先生の山中迓晶さんがお嬢さんのつばめさんと演じた「望月」などには強烈な印象を持ちました。

 今レバノンは切羽詰まった状況にあり、自分の国が経済も政治も安全性も定かでないという恐怖やいたたまれない思いを支えてくれ、自分の今のすべてをかけて届けたいのが夫が舞う能の「石橋」であるということは本当にありがたいことです。最近子供番組で、野村萬斎さんがラベルのボレロの音楽に合わせて三番叟を踊っているのですが、そのクライマックスを見ていてこれも祈りであると唐突に感じたのです。古来からの伝統芸能を大胆にアレンジしてもその真髄はしっかり残ります。それこそ猶彦さんたちが作り上げてきたものがそうです。何のために批判を受けながらも新作能を作り続けてきたのか。瞑想し動かない中にあらゆる情念を念じ続ける鍛錬をし、己を律し続けたことは、いかなる悲しみや苦しみ、悩みを支える何かを持ちえるのでしょう。文化は何のために存在するのか。それは人を支え、自分も支えられ、前に踏み出すエネルギーとなります。かなり前にギリシャの古代劇場で演じられた能を現地の男の子が食い入るように見ていたシーンを思い出すのですが、明治神宮の静寂な空間はギリシャが失ってしまったものだと言ったギリシャ人の演出家もいました。

 これからどんな世の中になるかわからない、どんな混乱が起きるかわからない時、とことんそれを味わっているレバノン人のマドレーヌさんは能の中に何かの光を見出ているし、お嬢さんのソラヤさんも映画監督として、「明日になれば」という作品を作り、何十年にも及ぶ社会的、政治的な不安にもかかわらず、宗教的分裂を越え、思想の自由を広めるための手段として芸術を用いています。家庭内に複数の文化の考え方が共存して、礼儀作法や自分を表現する方法も一つではない環境で育ったお子さんたちはルールでがんじがらめになる事への反発心もあるだろうし、両親の違った資質や血筋を持つということで、複雑な思いをすることも多いでしょう。でも「人間が本当に持っているものは、頭と心の中にある。他は奪われても残るのは、自分が覚えた知識や技能、心温まる人間関係・・そうしたことを大切に生きなさい」と諭し続けた数学者のピーターフランクルさんのご両親の言葉が蘇ります。

 Tomorrow  We  Will   See.      私たちが明日から見るものは、新しいものなのでしょう。