母と娘     赤い砂を蹴る

 若い頃好きだった作家が、中上健次と津島佑子でした。無頼派と呼ばれた中上の「枯木灘」のような肉体労働者の小説になぜ魅かれていたのかと今思うと不思議ですが、繰り返し出てくる土をつるはしで掘るシーンの奥に潜んだ絶え間ない命の鼓動のようなものが好きでした。いつも同じ、おなじみの路地裏の人々の描写や、彼の作り出す文章のリズムの執拗さが、さらっとした日本人の感覚でないのが不思議と性に合っていたのです。津島佑子は太宰治の次女さんで、「葎の母(むぐらのはは)」という小説のカバーに書かれてあった”生い茂る葎のように一人長い凍土の生を耐えた母と、子を孕んだ娘の、ひそかに狎れ合って男の生を蚕食する、誇らかな女の生への単独行”というのは週刊誌的見出しの様でいかがなものかとも思いましたが、意外と的を得ているのかもしれないと思ったりしています。

 今、図書館で津島佑子さんの娘さん石原燃さんの「赤い砂を蹴る」という本を借りて読んでいます。劇作家で戯曲では賞を取り、この小説も芥川賞にノミネートされたそうですが、それこそ週刊誌的に煽れば、「太宰の孫が芥川賞とれるか?」という所で、血筋というのは恐ろしいものです。うちには津島さんの小説が10冊くらいあるのですが、シングルマザーで二人の子供を育て、下の弟さんは小さい時心臓発作で突然風呂場で亡くなり、そして68歳で肺がんで亡くなった津島さんを看取ったいきさつやその時の感情の推移がこの娘さんの小説には綴られていて、これを読んだのがきっかけで、50年読まなかった津島さんの小説を久しぶりに読み返しています。朝の子供番組では「恥の多い人生を送ってきました」という太宰治の人間失格の出だしの文章が子供によって朗読されているし、父、子、孫と三代の文章をいちどきに目にしていると、妙な気持ちになります。

 親は親、子は子、独立してそれぞれ違うものを作り上げているとしても、その発想や思想の根源、考え方の発展の仕方、文章の息遣い、ものを見る目、風景の感じ方、そしてその時代に起きた事への反応や対処の仕方が、やはり特殊で独特なのかもしれない。石原さんが中学生の頃は校内暴力が蔓延していた頃で、教師も殺伐として角棒や箒の柄で生徒を殴り、そういう締め付けに対しても薄ら笑いを浮かべながら凌ぎ、そしてふっと自殺してしまう生徒もいた時代、その感覚がよくわかる彼女は痛みに鈍感になっていきました。しかし自分の痛みに鈍感な人間は、人の痛みに鈍感になるだけでなく、暴力に対して無防備になり、そしてよりひどい傷を負い、ますます鈍感になっていきます。でも石原さんは東日本大震災を経験し、人々の暮らしが一変してたくさんの人間関係が壊れ、また再生したころから母親とのつながりを取り戻したと言います。津島佑子さんの特異な感受性のもとで育ち、逃れようもなかったであろう石原さんが、母親を看取り一人きりになり、母の旧友の故郷であるブラジルにその方と二人で行って、そこの赤い土を蹴って歩く、「赤い砂を蹴る」というこの小説の題名は、もう子でも孫でもない自分の心象風景を表していて、見事です。

 小説家は自分の生き様を曝しながら、それでも何かを紡ぎ出さなければならない自分に対する使命感を持っています。うまく生きることが出来ない事への焦燥感、それでも何かがふと見えてきた時の束の間の安堵、それでも生きていくという決意。親を看取り、一人になった石原さんは、強いと思う。赤い砂を蹴る(石原燃)、光の領分(津島佑子)、走れメロス(太宰治)。それぞれの文章が、光景が、鮮明に脳裏に蘇ります。自分の孤独を引き受け、前に進んで行く三人の心の軌跡を一度に読むことが出来る幸せを感じています。