日はまた昇る     The Sun Also Rises

 ヘミングウェイのこの小説をやっと読み終えました。「禁酒法時代のアメリカを去り、男たちはパリで”今日だけ”を生きていた。自堕落な世代、a lost generation は、第一次世界大戦後の若者たちの生き様、そして矜持」本の後ろの解説にはこう記されています。

 毎日飲んだくれて、喧嘩して、また飲んだくれてというだけの小説じゃないかとあるレビューにあって、確かにそうだし、だからなかなか読み切れなかったのですが、でもヘミングウェイの文章は力があり、簡潔で、熱があります。舞台となるスペインの街が持つ空気の温度、作中に現れる生きた人間たちの体温はヘミングウェイの主張や思索でなく、そこにあるということだけでよい存在のようです。戦争での負傷で性行為不能になったアメリカ人の主人公は、戦争で夫を失った奔放な美しいイギリス女性や、ユダヤ系の真面目な作家、遊び仲間の吞兵衛たちとパリやスペインのパンプローナで享楽的な怠惰な日々を送り、ラストはみんなのマドンナのイギリス女性とイケメンのトップ闘牛士が駆け落ちをし、でもすぐ別れて戻って来るのです。

 第一次大戦後、1920年代のパリには、世界中から多くのアーティストが集まっていて、ジェイムス・ジョイス、ピカソ、エズラ・バウンド、ガートルード・スタインらそうそうたる名前が続くし、地元のジッド、コクトー、ダダイストやシュールレアリストらも交流していたので、カルチェラタンには、自由な空気が横溢していて、精神の解放区の様相を呈していました。禁酒法の成立した窮屈なアメリカに未練のない未来のアーティストを目指す夢見る多くの若者たちが、強いドルという後ろ盾を持って、モンパルナスの放恣な享楽に身を任せていましたが、戦争という極限状況下で神の不在を確認してしまった彼ら”自堕落な世代”の行動を透徹した目で描いたこの作品は、第一次大戦後の普遍的な時代精神の一端にも通じていて、ロマンティシズムと神の不在、その不毛の荒れ地からの出口を求めて、スペインのパンプローナへと流れていき、虚無からの再生を求めて魂は彷徨していきます。

 この小説の新訳をした高見浩さんの解説が素晴らしくて、ヘミングウェイの魂を持った日本人なのかもしれないと、ダンディな彼の顔写真を見ながら思ったのですが、ヘミングウェイがこれを書くに至った動機や流れが忠実にたどられていました。若い闘牛士パルマの正統派のマタドールの技の伝統を固守して、見せかけの技に走らず素晴らしいケープさばきで、死を恐れずに雄牛と対峙する姿に男の真の威厳を見たヘミングウェイは、彼を小説のヒーローにしたいと思い、人生の官能的な享楽こそすべてと割り切るロスト・ジェネレーションの男女と、死との対決の中に生のきらめきを見出すストイックな闘牛士の生き様を対峙させながら、この小説を書いていきます。

 パンプローナの渓谷にマス釣りに行き、汚れなき大自然の中に分け入り、清冽な谷川に近づくにつれて魂が癒されていく、魂と肉体の原初的な歓喜、そして闘牛士の体現する闘牛の真髄、完璧な自制心と誇りを持ち、自信を持って自分の仕事を遂行する男の威厳。闘牛場のアリーナで<生>と<死>のはざまに身を置きながら、<死>を完全にコントロールして<生>を貫徹する、その一瞬一瞬の美に魅かれるのです。無垢の大自然の中での鱒釣りに心癒され、フィエスタの踊りと酒に生きる歓びを実感し、闘牛士の研ぎ澄まされた反射神経の生み出す美に高揚する。三題話のようで、自然、生の歓び、芸術に対する崇高な傾倒と三つそろえば、人間はよく生きられたのかもしれない。でもそうは簡単にはいきませんでした。

 ヘミングウェイはマッチョのイメージとは裏腹に、終生女性の心理、あるいはゲイやレスビアンの人たちに深い関心と理解を寄せていたし、彼自身心の底に両性具有願望を秘めていたことも今では知られているそうですが、そういわれてみると、女性の描写の温かさというか同一感が半端でなかったのでした。最近いろいろな国の方々と接触してきて思うのは、こうでなければならないとか、今まではこうしてきた、皆がこうしているからという規範で動いていると苦しいのであればそうしなくていいのだけれど、ではどうやって生きていけばいいのか皆目見当がつかないから動けない人々が多くなっていることです。それでも自由にやりたいように動くことはできたし、ある意味ヘミングウェイはすべてをやりつくせた稀有な世代だったのかもしれません。でも、家系的にそうだったとは言え、最後は猟銃自殺をしてしまう。自死すら経験してしまいました。

 生きていくことというのは何なのだろうと思います。コロナの時代がはじまり、世界はヘミングウェイもこれまで経験したことのない未知のゾーンへ進んで行っています。戦争することさえ密になる、フィエスタもバルも、酒盛りしても感染してしまう、海外へも行けない、集うことも群れることも移動することも危険だという時、何処に神経を持って行けばいいのか。と思っていたら、昔の患者さんつながりで、亡くなられたご両親の着物の行き先を探していた方から、膨大な着物たちが届きました。近所の呉服屋さんの畳紙に包まれたあったかい穏やかな素敵なたくさんの着物たちを広げて、秋の日差しに当てて手入れしていると、その方たちの暮らしや生き様、感情が蘇ってきます。外国人は当分来ないから、日本の若いファミリーたちに着てもらおうと思い、昔の子供用の着物で、鬼滅の刃の禰豆子ちゃんのスタイリングをしていると、斬新なのにこれは今まであった種類だと解るし、何よりも生地が素晴らしいのです。それにしても、びっくりすることに、うちには何でもそろっています。

 朝の子供番組では、このところ源氏物語、土佐日記、方丈記、竹取物語、枕草子、平家物語、と古典の出だしの朗読が続き、金子みすゞの詩が歌になった後に突然太宰治の斜陽の文章が出て、あっと思っていたら次の日はなんと小林多喜二の蟹工船です。もう監修の斎藤孝さんは何を考えて居るんだか!と思ったけれど、着物と一緒で過去の文化の財産を洗い直すことが人生を豊かにしていくという強固な意志を持っているのかもしれません。最後にはラベルのボレロを狂言で、歌舞伎で、文楽で舞っていく。何らかのスキルを持って、個性にして、それとすべての文化をつなげていくことが、これからの子供たちの未来に必要なのです。

 日は毎日昇っていきます。いまできること、今やらなければならないことがたくさんある気がします。ゴリラさんたちのようにたくさん食べてたくさん動いて、たくさん本を読んで沢山考えて、生きていきましょう。