ブランデーのソーダ割り  Brandy Soda

 ヘミングウェイの「日はまた昇る」を読んでいた時、お酒を飲む場面が多くてしょっちゅういろいろな物をみんなで飲んでいたのですが、その中で気になったのが「ブランデーのソーダ割」でした。頂き物のブランデーが何本かあるのだけれど、飲まないからいつまでも棚に残っているという方もいるし、実際毎晩晩酌欠かさなかった義父も、ブランデーは苦手でいくつも箱に入ったまま何十年もしまってあったのです。それにしてもあまりにも主人公たちが酒ばかり飲んでいるので、昨日久しぶりに着付けの仕事して疲れた私はスーパーでイタリアの炭酸水買って、ブランデーのソーダ割を作って試してみました。・・飲みやすい! これがブランデー?という感じですいすい飲めるし、イタリアの炭酸水は微炭酸でほぼ水みたいだし、すーっと二杯飲んでしまいました。ヨーロッパではよく炭酸水を飲むシーンがあるのですが、ストレートだったら舐めるように少しづつ飲むのに、ソーダ割りは結構飲んでも少しも酔わず、これならあっという間に一本空けてしまう主人公たちの勢いもわかる気がしました。

 知らないお酒の名前が出てくるとスマホで調べ(ジャックローズ アグアルディエンテ・・)、ワインを革の袋に入れて回し飲みしたり、グビグビ瓶ごと飲んでしまう様子にあきれ果てながら、コロナ以後の世界では、スペインのフィエスタの熱い熱狂ももう戻ってこないのかと思ったりしていました。そんなシーンの記述の中に、高見浩さんの訳で引っかかった言葉がありました。「闘牛が終わって外に出ると、群衆に巻き込まれて身動きもできなかった。人ごみを突っ切ることもままならず、氷河のようにのったりと流れる人波に身を任せて町の中心部に戻るしかなかった」こののったりという言葉が何回読んでもそこだけ浮き上がって心に残るのは何だろうと考えていました。ヘミングウェイが使わないであろう種類のニュアンスの言葉だからかしら。

 そういえば、原作の中にもイケメンの若い闘牛士が主人公のアメリカの記者に、闘牛のことを指すスペイン語”corrida de toros"の正確な英語訳を質問していて、一般的になっている”bull fight"には彼は懐疑的でした。”闘牛”を文字通りスペイン語で言えば”lidia de toro"でそもそも闘牛というスペイン語を訳せば”牛の疾走”なのだから、結局闘牛に相当するスペイン語自体が存在しないという結論になりました。それにしてもこの若き闘牛士のいろいろなことに対する真摯な態度や考え方が素晴らしいし、先ほどのヘミングウェイの文章の一部を”のったり”と訳した高見浩さんの、自分の世界をしっかり持ってヘミングウェイと同化しようとしているセンスも、たまらなく素敵です。人に左右されず、自分の感情や情熱を突き詰める人達は、どうしようもない性、さがに逆らえないのでしょうが、それが吉と出ようが凶と出ようが仕方のないことで、その上を進んで行くためにはあえて通らなければならないいばらの道なのかもしれないけれど、じっと耐えて自分を信じていくしかないのかと思います。

 いましみじみ、生きていることが楽しいです。本を読んでも、人と会っても、仕事をしても、今まで見たことがないものが飛び込んでくるからです。

 「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知ると成す、これ知るなり」今私にとって、全ての感情が、新しいものなのです。

 結局、私たちは最後まで知る努力をしていけばいいのでしょう。

 私は今、ブランデーのソーダ割りを知りました。