煉獄杏寿郎   鬼滅の刃

  昨日「鬼滅の刃」を見に亀有の映画館へ行ってきました。コロナ後初めて、というか映画を見るのは本当に久しぶりです。前にやる予告編もアニメや若者向けの映画が多く、昔だったら外国の名画のオンパレードだったのにと思いながら、席も一つ置きに座るのだし、換気もよくするから空気も綺麗だし、何か妙な気がしていました。子供から大人まで、大変な人気のこの映画ですが、この作品のキーポイントは、“理不尽”だそうです。主人公の炭治郎にしても、父を亡くしたあと、長男として母や幼い弟妹を守り懸命に働いてきたのに、ある日突然家族を鬼に殺されてしまうのですが、鬼平犯科帳で押し込み強盗に皆殺しにされたり、戦争で焼きうちにあった村のようなシーンが続くのです。何でこんな目に会わなければならないのか、何も悪いことはしていないのに。ところがこのような出来事は鬼にも襲い掛かっていて、その理不尽な出来事による怒りや悲しみのため、鬼となってしまったのです。

 時代は大正、ほの暗い夜の無限列車に乗っている乗客はどこか懐かしい着物姿でぐっすり寝入っているのに、鬼は皆殺しにして食べてしまおうと企んでいる。下弦の壱・魘夢は、人間を強制的に眠らせ夢を見せている隙に殺す鬼で、人の不幸や苦しみを見るのが大好物という、残虐な性格の持ち主なのです。この暗喩は何なのか。今私たちもどこへ行くかわからないで疾走している列車に乗っている。敵の鬼も、今までは人間として普通に生きて来たのに、権力を持ちすぎたり生まれや育ちや生き方につまずいたりと、何かのきっかけで魂を売って鬼になってしまっているのです。相手を倒そうといくら残酷な手口を使ってもそれで満足できるわけでもなく、それに対して必死で戦う炭治郎や仲間たちや柱の煉獄杏寿郎達の結束や成長をより強固にしていく助けになっていくのですが、どんなに苦しくてもなりふり構わずひたすら家族の言葉を支えに強くなろうとする彼らの姿は、今までのどんな映画やアニメにもなかったもののような気がします。負けたらおしまい、どんなに絶望的でも未来を諦めたら、自分の支えになる家族さえ冒瀆することになる。

 走る列車で繰り広げられる炭治郎と魘夢とのバトルシーン、そしてもうひとりの鬼、上弦の参・猗窩座(あかざ)との闘いでは、炎の呼吸を使う煉獄杏寿郎と鬼との壮絶な闘いをとおして、炭治郎たちはかつてないほどの理不尽さや怒り、己の不甲斐なさに直面する。同じような壁を幾度も乗り越えてきた煉獄さんは、断末魔が近づくさなかでも言葉を吐き続けます。「その刃で、悪夢を断ち斬れ」今私たちは悪夢の中にいるのだろうか。鬼によって夢を見ているうちに殺されかけているのだろうか。炭治郎は夢から覚める手段として何度も自分の首を切って、自死することで覚醒します。娘曰く、炭治郎は能力や才能があるタイプではなく、歯を食いしばって努力して技を身につけていくから、時間もかかるし不器用だけれど、煉獄さんは「胸を張って生きろ、己の弱さやふがいなさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」と激励します。死にゆく戦いの最後の一撃を、”心を燃やせ”と絶叫して下すシーンは、人間が限界を超えるときは自分が炎に包まれていくのが見えるのかもしれない。そこまでして自分を燃やす、太陽に向かって突き進み焼かれるイカロスのように、ゾーンを越えて変転することで、何かに変わっていくのでしょう。

 鬼になれば死なないし、苦しまないから永遠に生きられるのだと誘う猗窩座(あかざ)に、煉獄さんは「君と俺とでは価値基準が違う。俺はいかなる理由があろうとも、鬼にはならない」と断言します。鬼になるかならないかは価値基準の違いだということ、人間性の違いでも思考のちがいでもなく、価値基準だというのは面白い。私が前に書いたブログに「共に生きていく価値観とか、物事の本質に向き合い、原点から考え、そして考え抜いて戦うことができ、文化を感じられる感性を持ち、答えを出すだけではなく、問いは何かを考えていくことが今一番重要なのだと思う」とあってちょっとびっくりしたのですが、平和で穏やかな時でも有事の時でも、人間は価値基準で生き方が変わる?のでしょうか。平和な時はどんな価値基準でも法を犯さなければ認められてきた、でもこの無限列車の中で強制的に眠らせ夢をみている隙に殺されてしまいその意識すらなくなってしまう、それでいいのか、と必死で奮い立つ炭治郎たちの価値基準は人を救うこと、戦うこと、強くなること、前は人間だった鬼を否定し、戦う意志決定をする動力は”価値基準”にあったということがこの映画の言いたい事なのだと感じています。

 闇の中をどこまでも疾走する無限列車の中で眠らされた私たちは今巧妙な夢を見させられています。楽しい夢の中でずっと暮らしていたい、幸せな心でずっといたい、それは皆が望むことなのに、覚醒して見ればドロドロした恐ろしい沼地の中で鬼に食われている。夢の中にはその人の「精神の核」があり、それを破壊されてしまうと廃人となってしまうから、それを守るために戦っているのでしょうか。戦いを仕掛けてくるものは精神の核を破壊されたものたち。美しいもの、正しいもの、永遠のもの、愛するものを守ること、美しくあること。その精神の核を破壊された鬼たちがいくら死なずに生き続けるとしても、陽の光は浴びることができない。日の出の穏やかさを楽しむことはできない。老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだという、煉獄さんの価値基準を尊いと思います。だから私は今、戦いの中にいます。何を守るために?精神の核を守るために。