舟を編む

 三浦しをんさんの小説「舟を編む」は辞書作りに励む出版社の人たちの熱い情熱を綴った物語で、松田龍平と宮崎あおいのコンビで映画化され評判になりました。最近日経新聞の書評で見て、まだ読んでいなかった私は今頃図書館で予約し読んだのですが、感動して最後はボロボロ泣いてしまいました。一緒に借りたのが、小林多喜二の蟹工船で(朝の子供番組でこの本のさわりを朗読していました)プロレタリア文学を年取って読んでみると、文体の若さとかがとても気になり、時代性のあるものですが一度読めばもういいし、後で気が付いたのは登場人物が名前を付けられていないのです。

 着物の着付けを始めてから、それに関するいろいろな出来事をブログに書くようになり、忘れることが早くなってしまった私にとって、感情の記憶を言葉にして記録しておくことは大事だし、楽しいのです。ただ最近自分の言葉の選び方が単一的になってきたと解ってきていて、どうにかしなければと思っていた矢先だったせいもあって、舟を編むの主人公が言葉にこだわっていく執念というものに圧倒されてしまいました。板前をしている奥さんの香具矢さんの言葉に「記憶とは言葉。香りや味や音をきっかけに古い記憶が呼び起こされる。曖昧なままに眠っていたものを言語化すること。何かを生み出すためには言葉がいる。言葉があるからこそ、一番大切なものが心の中に残る」とありました。

 私の場合はやはり着物たちのことが一番気になります。たくさんの着物たち、帯、小物、心を込めて選び、大事にし、愛されて来た着物たちの言葉が私にはわからない時がたくさんあります。自分の好みだけでは追いつかない、どんな思いで下さった方はこの着物を着たのか、持ち主のたたずまい、記憶、言動、生涯はなんだったのか。こちらのすべてを信頼して持ってきてくださる身内の方から丸ごと受け取り、日に当てて手入れし、自分の先入観や癖は全部取り去って組み合わせようとしているのですが、なかなか難しくて、最近よく遊びに来るナギサちゃんとヤンママに新しい感性で取り合わせてもらっています。初めに私が着物と帯と帯締め帯揚げを選んでボディに着せ、それからママと時にはナギサちゃんも加わって、新しい組み合わせをしてくれます。えー、こうなるのかと、ボディに着せて絶句したり、私ではしない組み合わせで、もやもやっとした違和感もあるのだけれど、あえてそれを受け入れて着て見ないと、先へ進めない気がしています。鬼滅の刃ファンのヤンママは、連続模様の格のある小紋に、ちょっとおどろおどろしい黒地の柔らかい袋帯を合わせ、最近彼女が好きな振袖用でない変わった帯締めを締めて帯と同化させました。私がそれを見て、唸っていたので、ヤンママは「好きに組み合わせていいというから・・」と弁解していましたが、こういうことが出来るのは、今までは外国人のゲスト達でした。着物のことは何も知らないといいながら、着物を着るということの本質と、自分のアイデンティティ、そしてすべてに対する愛情をしっかり持っているのです。だからアレンジもできるのでしょう。

 コロナ感染が収まらず、これからどうなるかもわからない混沌の時期に、私がマスクして着物を着る意味は、おさまってはいけない、突き進むこと、戦う術になるかということだと、感じています。今までの着方では、何よりも自分が納得しない。常に前へ前へと進む気概を持ち、跋扈する鬼と死に物狂いで戦いながら高みを目指す鬼滅の刃の主人公の「己を鼓舞せよ」という言葉がいつも頭の中を駆け巡ります。

 読み終わった「舟を編む」の本をテーブルの上に置いて見て、私は初めて気が付きました。その装丁が本の中の辞書の装丁と一緒なのです。夜の海のような濃い藍色の表紙、クリーム色の見返しの紙、銀色の題字と作者名、古代の帆船のような形状の舟の絵と細い線の波と裏表紙の三日月も銀と、小説に書かれている辞書と同じ装丁をこの本はしているのです。舟を編むとはこういうことなのかと合点がいきました。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊饒なる言葉の海をゆく舟を、作者は編んだのです。辞書を読んで感動するわけでもないし、涙することもないのでしょうが、どんなに少しずつでも進み続けていればいつかは光が見えてくるし、何よりも強いのは本当に好きなことがあり、それを極めていくことが何より生き甲斐だということを三浦しをんさんは指し示してくれました。

 着物というツールを通して派生するすべてのことが面白く、いとおしいという感情が持てることを、何より有難く思っています。