パンドラの箱 予兆とは?

 産経新聞の話の肖像画というコーナーに作家の安部龍太郎さんのインタビュー記事がずっと掲載されていたのですが、最終回の昨日の記事に「コロナウィルスの発生原因は、ある意味で人間が踏み込んではならない部分にまで踏み込んでしまった、行き過ぎた環境破壊の結果とか、人為的な敵意の産物とか、パンドラの箱を開けてしまったのではないかという気がしてならない」とあり、ギリシア神話を読んだ時インパクトの強い物語として記憶に残るこの話について調べてみました。美しい女性パンドラは、ゼウスの命に背いてひとに火を与えたプロメテウスに罰を与え、人に災いをもたらすために送り込まれた刺客でしたが、「決して開けてはならない」とゼウスからと渡されたパンドラの箱〈本当は壺だそうです)を好奇心に負けて開けてしまったとたん、世界中に災い(戦争、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪、貧困、嫉妬、飢餓、残虐、好色)が飛び散り、パンドラは慌てて壺の口を閉じましたが、その時その中にエルピス(希望、予兆)だけが残りました。

 このエルピスをどう解釈し訳すかで物語の意味も大きく変わるというのですが、私が子供の頃読んだ神話には最後に壺の底に「希望」が残っていたために、人はどんなに災いがあっても、決して希望を失わずに生きていけると書いてありました。ところが、今調べていると、人のもとに希望があるからこそ、いつ終わるかわからない困難にずっと立ち向かっていかないといけない、かなわないことをあきらめきれずにずっと追い続けてしまうという苦しみを持つことになったという解釈とか、予兆という先を見通す力が外に出られなかったということで、人は未来を知ることが出来ず、多くの災いにあいながらも、手探りで進み続けなければならないという解釈があると言います。

 子供の頃読んだ時には素直に希望というものの存在を信じていたし、ほんの少し前までは明けない夜はないと思っていたのですが、おさまりそうもないコロナの猛威はワクチンという武器だけで戦おうとする人間をまだまだ苦しめそうな気配です。あらゆる災いが存在していた世の中でも私たちは何とか生きていけたし、喜びや感動や悲しみや苦しみを味わいながら前を向いてそして希望を持って進んでいました。でも今、壺の中に残された予兆が示しているものが恐ろしいものだとしても、私たちはそれでも立ち向かって生きていけるか。時代の裂け目、世界の裂け目に立っていることを、自覚しています。

 パンドラの壺に入っていた最後の災い”予兆”がもし外に出てしまい、人類が自分の未来を知ったのなら、生きることをあきらめてしまっていただろうということは、我々の未来は恐ろしいものなのでしょう。お正月どうするの?旅行行って遊ぶの。今まではそれが当たり前のことで、それが出来なくなるなんてひどい!政府が悪い!といまだ人のせいにできるのは、予兆がパンドラの箱から出ていないからかもしれません。でも予兆を知ったら、私たちは生きていく気力をなくしてしまうのでしょうか。三浦春馬さんや竹内結子さんが、才能があり仕事にも恵まれ家庭もあるのに自ら命を絶ってしまうのはなぜだろうと考えてしまうのですが、彼らはもうすでに今の世界の終焉を見てしまったのかもしれません。

 破壊と再生。何百年という時代のスタンスを経て、新しい太陽が昇っていきます。パンドラの箱の中身は全部外に出ました。「人は自分のためには再生できない。他の誰かのためにしかできない。死ぬのは苦しいし、どこまでも孤独だけれど、いったん死なないことには再生もない。再生するためには一度死ななければならない」村上春樹の小説の中の一文です。徹底的に今までの観念が破壊されて、そして新たに再生しようとするなら、他の誰かのために再生することでなければならない、私が出来ることで他の誰かのためになることを考えていると、それは大きな円を描くように、沢山の方が私にしてくださったことを、違う形で再生してどんどん他の方のためにやっていけばいいのでしょう。悪夢の中でもがく鬼滅の刃の主人公がそこから抜け出すために、強い意志で自死し、覚醒して鬼と戦い続けるシーンを思い出します。

 再生した新しい時代には、パンドラの箱の中身はもう通用しないかもしれない。予兆もすべて受け入れて、そしてそこから進んで行きます。