新しい年

 新しい年のはじまりです。

昨日は夫が義母をショートステイに送っていき、三が日預かってもらうことになりました。年配の男性のケアマネさんがいろいろ取り計らって下さり決まったことなのですが、相変わらず物事が正しく把握できない義母は、今日は何の仕事をさせられるのかしらとそそくさ出かけ、だましているような気がして、私はどんよりした気持ちで気が引けていました。

 でも新年の支度をしたり神棚を拝んだりしていると、義母がいたらできない当たり前のことを、普通に落ち着いてできることが何より有難いことに気が付きました。私たちが義母のものを盗むと義弟に訴え、彼のアドバイスで神棚のある部屋に鍵を付けてしまった義母は大怪我をして入院生活を送ってからは認知症がひどくなり、コロナウィルスの影響で買い物も行けなくなって、デイサービスとショートステイに通う様になりました。義父が元気なうちのお正月の三が日は本当に大変で、朝昼晩とずっとお酒を飲み、沢山作ったおせちを食べ、お客様もいらっしゃる日々を、子育て中でまだ若かった私は夢中でこなしてきました。漬けた白菜の塩気が足りないとやり直されたり、煮物が義父のおふくろの味と違うと言われ野菜を買い直したり、いろいろありましたが二十年が過ぎ、長女が二十歳の時の正月、義母とぶつかり二年間の冷戦状態が続き、それから心臓疾患で義母が入院したり、義妹がなくなったり義父が癌になったりしているうちに、完璧な正月支度はだんだんやらなくなってしまいました。

 そして今、コロナ禍の中、夫と子供たちを迎える正月の準備をしながら、心は本当に穏やかです。日の出を拝み、月を愛で、神棚、仏壇、荒神様に三が日お雑煮を持った木皿を供えながら、こういうことが出来ることに感謝しています。あの過酷な正月準備は決して無駄ではなかったし、お茶のお稽古の様に体に染みついています。この制限された生活を動かせるのは、今まで自分の中に積み重ねられた文化なり、感情なり、味覚なのでしょうが、去年の正月風景を映したテレビを見ていたら、食べ歩きしたり、密集した境内でお詣りしたりしていて、今では全く禁止されていることばかりで、ほんの一年前の事なのにと感慨深く見ていました。そういえばこうなったら電車の中での化粧など考えられないし、すっぴんでもマスクすれば大丈夫なのでした。世の中は多分正しい方向に粛正されているのでしょう。 

 今年子供たちとお正月のお膳を囲み、お酒を飲んで思ったのは、コロナ以後の彼らの成長ぶりです。強い、苦境に強い。今までの順境の方が将来の不安が強かったのですが、リセットされて一から積み上げていく人生がこれから始まるのならば、特殊な経験をしてきた私たちは強く生きられそうな気がしています。

 「強くなれる理由を知った 変わっていけるのは自分自身だけ それだけさ 」  紅蓮華の歌が心に染みます。