平蜘蛛の茶釜

 コロナウィルスの影響でNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」も収録が遅れて年が明けてもまだ放映中なのですが、最終回が近づいて佳境に入り、初めは衣装が派手すぎるとか、キャスティングがピンと来ないとか批判的だった私も今は引き込まれていて、先週は織田信長に反旗を翻した吉田鋼太郎演じる松永久秀が戦いに敗れて、秘蔵の茶道具に火を放ち自害するシーンを息を吞んで見ていました。シェークスピアも演じる吉田鋼太郎の演技は圧巻でしたが、信長が欲しがっていたのに最後まで献上しなかったという久秀の平蜘蛛の釜はどうなったのか、これには諸説があるようです。久秀が釜と一緒に爆死したというのが通説になっているようですが、武士たるものは腹を切って死ぬのが当然だから、爆死はありえないとか、テレビドラマの脚本のように明智光秀の手に渡ったというのはフィクションだとか、真実はわかりません。

 夫とテレビに見入りながら、ふとお茶のお稽古で、平蜘蛛のお釜でお茶を点てたことを思い出しました。厳しいお稽古をなさる先生でしたが、惜しげもなくいい茶道具を使わせてくださり、正客としての問答も毎回教えられて道具の名前、作者、謂れもよどみなく答えられるように指導されました。いつもピリピリした空気の中のお稽古だったので、わからない事ばかりの私は叱られ続けていたのですが、その中でお釜の名前を聞いた時「平蜘蛛でございます」と、お茶の先輩が答えて下さったのが心に残っていました。お釜の名前に蜘蛛が付いているのが妙な気がしたのですが、テレビドラマで松永久秀の持ち物で信長が最後まで手に入れられなかったものだと知り、歴史がどんと投げ込まれている茶道とは、本当は恐ろしいものなのかと初めて感じています。

 それにしても、お茶のお道具類は膨大なもので、これを全部把握するなどできない事ですが、茶道をやっていた方々から使わなくなったお道具を頂き、お茶碗は外国人のゲストに随分差し上げました。最近は日本の方もお茶を気軽に覚えたいと言っているので、好きな着物を自分で着た上でお茶を点て、美味しいお菓子を食べるということをやってみたいのです。晩年は権力に任せてお茶の道具を集めるのに奔走していた信長は、だんだん人が去って孤立して、最後の結末を迎えるのですが、なぜ最後まで平蜘蛛釜にこだわったのか謎で、このお釜を見に、静岡の美術館に十年位前に行った方の感想が「こんなものか、普通のお釜なのに・・」とあり、何かおかしくなりました。  

 お茶の心得と、着物を着るための習練は、私にとって同じような気がしています。今年になって美味しい和菓子を食べるためにのみ、色々な種類の着物を次々着ていると、今まで気づかなかったそれぞれの着物の個性や手触りの違いに驚くことがあります。紋付きや色無地など着て行く機会がなかったから手を通すこともなかったのですが、花びら餅や桜餅を食べるために着ることが、ステイホームの今にはふさわしい気がします。あらゆる着物を着ようと思い、短いのにも挑戦していると、意外と大丈夫だったりして、毎日着たら一年で365枚着れるのですが、うちにはもっともっと枚数があるのでした。お茶と一緒で、着物を着る一つ一つの動きに、心をいれること、形そのものが心であることを忘れない事、何も加えず何も省かず、最新の注意を払って水が流れるようにお点前をすること。

 生きにくい時代をいかに生きるか、先のこともわからず真っ暗闇の中を歩いて居る気がするときに、お茶は教えてくれる、長い目で生きろと。どんな苦しい境遇に置かれたとしても、これは好日、結構なことですと心から言えるようにならなければいけないと、「日日是好日」というお茶の本を書いた森下典子さんは言います。過去や未来を思う限り、安心して生きることはできないとしたら、今できることは一つしかない、それは今を味わうことで、ただこの一瞬に没頭できた時、人は自分が遮るもののない自由の中で生きていることに気が付く。お茶を点てながら感覚を研ぎ澄まし、花を見、風を感じ、抹茶の匂い、湯の温かさ、竹の茶筅の香りにはっとする。初めてうちでお茶を点てた時の感覚を、外国人のゲストはわかってくれていたと思っています。修業は大切で、沢山のことを知らなければならないけれど、体に添うように自然に着物をまとって、ひたすらお茶を点て、お菓子を味わい、花を見ればいいのでしょう。

 今日の「麒麟がいく」はどんな風になるのか、じっくり見ます。