風神雷神

 ずいぶん前に原田マハさんの小説”風神雷神”の書評を新聞で読み、ちょうど帝釈天の仏教彫刻の中に彫られていた風神雷神についてインド人の男の子といろいろ話合った後だったので、興味を引かれて図書館に予約メールを入れたら、貸出順位がなんと70番目で半ばあきらめの境地でいました。それからコロナ旋風が吹き荒れ、状況が全く変わり、半ば予約したことも忘れた頃に順番が回ってきて、先日上下二冊一気に読みました。謎に包まれた天才絵師俵屋宗達が、天正少年使節の四人の少年とともにローマ教皇に謁見するため長い航海を続け、ヨーロッパで考えられないような刺激を受け帰って来るのですが、その間に日本は激変していてキリスト教を庇護していた織田信長は亡くなり、その後天下を取った豊臣秀吉はキリシタンを弾圧したため、四人のキリシタンの少年たちも悲惨な運命をたどることになるのです。

 病弱な子供だった私は布団の中でたくさんの本を読み、この少年たちが描かれた少年少女歴史文学も大好きで、その挿絵も彼らの名前もいまだはっきり覚えているのですが、その後遠藤周作の「沈黙」を読んだ時、迫害を受けて苦しみながら、どんなに神の名を呼んでも沈黙していたではないかと続く重苦しいキリシタンの独白は、日本人の民族性そのもののような気がしていました。

 原田マハさんの小説は、狭い日本だけで暮らしていた感受性豊かな少年たちが、遠い異国で、宗教でも芸術でも圧倒的に違うことで受けたインパクトが強烈に語られていますが、それにしても初めにこの四人のキリシタンの少年たちが日本に帰国してからたどった厳しい人生について記されていると、どんなに宗教的な開眼をしても悟りを得ても、時の権力者の圧政の前にはなすすべもないということは、日本の宗教というものは付け焼刃なのかとふと思ってしまいます。柴又帝釈天の仏教の彫刻版は精緻でその彫刻の見事さに外国人のゲストは感動していったのですが、ある時ルーマニアの社長が僧侶を三人の男が棒で殴るところの彫刻を見て不愉快そうに顔をしかめ、何でこんなことをするのかと質問されて私は答えられませんでした。常不軽菩薩の話の彫刻だったから、どんな苦難も受け入れ、相手に抵抗せず何をされても受け入れるというお釈迦様の教えだと説明すればよかったのでしょうが、そのことを私は心から納得していなかったから、英語で話すなどとてもできなかったのでした。インドの男の子は柴又帝釈天の彫刻版を見て、「埃にまみれている」「これは中国風の彫刻だ」「唯一インドからのものは風神雷神だけだ」と酷評し、これにはオリジナリティがないと言っていました。

 今私が外国人のゲストに、あらためてこの彫刻版を見ながら何を説明するでしょうか。風神雷神にしてもそれを描く絵師の力量や彫刻の素晴らしさをいう前に、風神の根本的な意味を、この風の時代に、神の息から生じる風を司る風神が悪い神を追い払い、豊饒や福徳を授けたということを今一度思い出さなければならなかった。「風は神様の息なのです。風を司る風神は悪い神を追い払い、(悪い神がいるなら、悪い人間がいるのも納得できます)私たちに豊饒や福徳を授けて下さる」The wind is the breath of God. The wind god who controls the wind drives away the bad god (if there is a bad god, it is understandable that there is a bad human being) and gives us fertility and good fortune. @

 私より少し上の世代の文芸評論家が、忠臣蔵も義経千本桜も知らない若者が増えてきた、このままでは文化が消失してしまうと嘆いていて、舅は暮れになると必ず赤穂浪士のテレビドラマを見ていたけれど、それを今また繰り返して見せる必要はないと私は一緒にずっと見てきたうえで、はっきり思います。それに代わって、今や鬼滅の刃やエヴァンゲリオンなど、世界中の若者に支持されるものがある、勿論批判する人々もたくさんいるしそれは当たり前なのですが、娘やヤンママは何回も鬼滅の刃の映画を見て号泣しているし、この前中村勘九郎一家のドキュメンタリーを見ていたら、9歳の勘太郎君が大好きで映画見てボロ泣きしたと言っていました。子供ながら血筋は争えないもので、豊かな感覚の演技をする彼の今のアイデンティティーは鬼滅の刃なのです。心の底から守りたい何かを持っているかどうか、そのために命を懸けてまで戦えるか。

 忠臣蔵を知っている高齢世代でも、血塗られた手で悪事を犯し続けているものもいる、赤穂浪士を知らなくても他人の為に己を差し出せる若者もいる。宇宙が大きな流れの渦を巻きながら、ひとつの方向に向かおうとしているエネルギーを感じている今、娘にも夫にも私にも新たな仕事が与えられてきました。風神雷神の意味を考えながら、柴又も帝釈天も、新しくとらえ直せと言われている気がします。