クララとお日さまの前に

  カズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞後初の新作「クララとお日さま」が刊行され、日本メディアとの合同オンラインインタビューの記事が載った日経と産経新聞を読みました。日経の文化欄の見出しは「科学が生む残酷な不平等 AIが主人公の新作 思考や感情の実験 小説通じて」とあり、産経は「人間の心と生 根源的に問う。科学技術が生む格差、分断も活写」とありました。AIを搭載したAF(人工親友)なるロボットの私クララが語り手となり、抜群の観察力を持つクララと彼女を購入した病弱な10代少女の出会いと別れを縦糸に、人間の心、そして生の意味を見つめる哀切な長編で、ビッグデータやAIの時代に、人間が個人としてお互いを理解するやり方が、これまで何百年となく続けてきた方法とはすこしずつ変わっていくかもしれない、そして人をひとたらしめる条件とは何かという問いかけを投げかけています。周囲の人が抱く感情によって、個々の人間はユニークで特別な存在になる。人と人との関係性の中に、魂はあると思うと、イシグロさんは言います。

 イシグロさんの前作は、六年前にアーサー王伝説を下敷きに、社会は負の記憶とどう向き合うべきかを問う「忘れられた巨人」ですが、私は読んでいないので、クララとお日さまを購入する前にこちらを読まなければならないと、急いで図書館から借りて読みました。これまでの作品とは大きく異なる時代設定で話題を呼び、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラーに発売直後からランクインしたそうですが、日本人が書いたものとは思えないくらい、日本人になじみのない、わかりにくい内容なのです。しょうがないから途中でレビューを読んで見たら、最後まで何が言いたいのかわからない、難解だというのがあって、確かにそうだと思いながら でも、何でこんなに多様性に満ちた題材を使い、まったく違うタイプの小説が書けるのか、だからノーベル賞をもらった有能な作家なんだと逆に思ってしまいます。読んでいてこれはゲド戦記みたいだし、竜や鬼が出てくると、かえって今のコロナの世の中にフィットして色々考えてしまうことが多いのですが、『忘れられた巨人』においてイシグロさんが書きたかったテーマは、ある共同体、もしくは国家は、いかにして『何を忘れ、何を記憶するのか』を決定するのか、というもので、これまで扱ってきた個人の記憶というテーマから『共同体の記憶』に発展していったそうです。

 それにしても竜によって自分達の記憶が食べられてしまい、うすぼんやりした中で人々は暮らし、そして主人公の老夫婦はその中で苦難に満ちた旅に出るという設定を見ていると、コロナウィルスに感染した後遺症で「ブレインフォッグ」というのがあり、頭の中に霧がかかった状態で、考えたり集中したりするのが難しくなり、ウィルスによる脳細胞のダメージや、脳や全身での炎症が神経症状につながる可能性も指摘されています。私たちはもう恐ろしい世界の中に入っていってしまっている、世界中の政治的混乱や、ワクチン接種の是非、便利なインターネットの恐ろしさ、いろいろな物が突然てんこ盛りになって突き付けられている今、かえって記憶がないというのは楽な気もしてきました。イシグロさんの言葉に、過去に起こった大きな出来事を記憶に残すか、忘れ去るかは常に悩まされていて、簡単な答えはない、自分が書きたいのは感情は気持ち、飢饉で何十人が死んだと単に情報を伝えるのではなく、飢えるとはどういうことか?何を感じるか?どのように苦しんでいるか?を伝えたいとありました。

 忘れられた巨人では、何か大事なことが過去に起きたはずなのに、記憶にもやがかかっているようで思い出せない。そのもやの向こうにある「記憶」を探して老夫婦は旅に出て、そこで山の上に住むというドラゴンの秘密に出会い、その秘密の向こうに見え隠れする無残な出来事の記憶、果たしてその記憶を取り戻すことは幸せを意味するのか?もしくはそれは新たな悲劇を意味するのか?忘れられた巨人とは一体何なのか?

 アーサー王を下敷きにし、戦士や神々、化け物が大好きで、妖怪がたくさん出てくる昔話が大好きだったというイシグロさんが書いた異色のファンタジー・ノヴェルは、そういう土台がない私にとってはピンと来ないのですが、アーサー王と円卓の騎士に出てくる騎士の名前はゲームによく出てくる名前だそうだし、今を時めく鬼滅の刃も鬼と人間の戦いで、物凄い人気です。結局、分類不能でジャンルを逸脱することを恐れない独特のポジションを文学の世界に築いた作家であると聞くと、よくわからないながらとても誇らしい気持ちになるし、ジャンルを「ハック」し作品ごとに全く新しい世界を提示していけるのは、平凡な日々の生活の中に神々や超自然的なものの存在を感じるのが好きだった彼の気質に寄るのでしょうか。

 老いも若きもすべてを自分の頭で問い直して構築し直さないと、AIに精査されてしまうかもしれないのに、肝心の脳に霧がかかったような状態になってしまったら・・この小説は人間とAIの境目がまだあやふやな時期を経て、人間もAIもとてもシビアな世界に突入するという警告であり、そのために今何をどう準備したらよいか考えろと言っている気がします。コロナ禍の中で立ち止まり、動けないでいることが、実は大きな救いなのかもしれません。