ブレイクスルー

 お彼岸が終わって桜が満開となり、桜並木を眺めながら毎日スーパー巡りをしています。いつもならスマホでいろいろな所の美しい桜を撮るのですが、今年は言い知れない不安やもやもやした苦しみが心にあって、桜を綺麗だと感嘆できないのはなぜかと考えて居ました。去年はステイホームで人目を忍んで桜を眺めていても、忍ぶ恋のような愛おしさが心に潜んでいたのに、今年は桜を見てもカラカラの感情しか持てないのはコロナ感染蔓延からの感情麻痺の後遺症かしら。でもそんなこと言ったら、コロナウィルスに怒られそうな気がします。

 カズオ・イシグロさんの”忘れられた巨人”を一生懸命読み終わったのに、肝心の巨人の意味がはっきりわからないでいたのですが、去年の七月にノーベル賞受賞記念講演に彼が出版した本について書いた私のブログがあり、もう忘れてしまっているので読み返したら、そこに「暴力の連鎖を断ち切り、社会が混乱と戦争のうちに崩壊していくのを阻止するためには、忘れる以外にないという状況がありうるとしても、意図的な健忘症と挫折した正義を地盤として、その上に本当に自由で安定した国家を築くことなどできるのか」とのイシグロさんの言葉を抜き書きしてあって、過去の忘れたい記憶にどう折り合いをつけるのか、不都合な歴史は忘れたほうが善なのかということがメインテーマだとわかりました。そしてそれを巨人とみなすなら、それを使って物語るということの本質は、感情を伝えることであり、感情こそが境界線や隔壁を乗り越え、同じ人間として分かち合っている何かに訴えかけるものだと彼は言っています。

 この闇と霧にうずもれたような今の世界で、何が正しい情報なのかわからず、それこそ正しさとは何なのか考えてしまいますが、権威も権力もあてにならないのだから、一人ひとりの人間が優れた意志と忍耐力で技を磨き抜くことが肝心で、そして最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するもの、つまりしっかりと自分の活動をうまく限定し、全力をそこに注ぎ込むこと、そうすれば道は開けるということだそうです。自分の顔を隠してただ人を苦しめる者は、自分の顔も存在もなくなっていく。職人さんとか芸術家とかアスリートとか、それこそ作家も、生活の枠を狭めてでも自分のやるべきことのみに集中していくことが一番大事で この困難な世界の地平を渡って行くためには、本当の自分というものがなくては生きていけないだろうし、自分にとって一番大事なものは何かと思った時、イシグロ氏のいう”感情を他者に伝えていくこと”が必要なのかと思います。

 今まで、これまで外国人のゲストと過ごした日々のことや、皆さんが着た伝統文化の極みである着物のことを何らかの形にして、その感情を伝え残していくことが義務ではないだろうかと思ってきました。私はとても貴重な体験をしてきたけれど、コロナ後はこれまでのような仕事はできない、だったら今までの経験を昇華させる何かの技術をつくりあげていけばいいのでしょう。でもきっかけがまだ来ない。ブレイクスルーは思いがけないところから来るのかもしれないと、去年の七月に私は思っていました。

 ブレイクスルーとは、「壁を突破する」という意味を持ち、物事が躍進するというポジティブな場面で使われ、困難な物事に取り組む中で壁を乗り越えるとか、行き詰まりを通り抜けて打開する、ということですが、組織ではリーダーの覚悟がいるし、様々なブレークスルーが日本のものつくりを支えてきたと言います。今年は宇宙元年、そしてスピリチュアルな風の時代ならば、今私の支えは、うちに立ち込める色々な着物や人形や額の気配や意志と感情で、何も考えず大きな流れに身を任せ、あるがままに、暮らしていくことでよいのではないかと思い始めています。山田洋次監督の「小さなおうち」という戦前のある家庭を描いた映画を見ていたら、ご主人の足の裏を裸足で女中さんが踏んであげるシーンがあって、そういえば良く父親の足の裏を子供の頃踏んであげたと思ったら、父の足の裏の感触を私が今も覚えていることに気が付きました。昨夜温かかったので毛布一枚で寝ていたら、夜中にふわりと薄い布団を夫がかけてくれた時の感覚を、寝ているのにしっかり覚えている。そういうことを、私たちはもやがかかったような頭で覚えていることが出来ないのだけれど、自分の手の中に、オーロラのような雲のような何かの感覚と、懐かしい感情がだんだん大きくなってきている気がします。

 忘れられた巨人で、帰らない旅に出た老夫婦が、若い頃のたくさんの諍いは霧の為覚えていないで、ただ今相手がいるという感覚だけを支えに、二人で困難な道を歩いていくということが、結局イシグロさんの伝えたい事なのかと思いました。感情を伝えるために大事なのは、損得勘定でも欲でも誹りでも嫉みでもなく、ただ何とか前進していこうとする純粋な気持ちだけでいいのでしょうか。

 小さなブレイクスルーが、私の中で、今たくさん起きています。