クララとお日さま

 ノーベル賞受賞後初めてのイシグロカズオさんの小説が世界で同時発売されたので、私は早速夫に頼んで、楽天でその”クララとお日さま”という本を注文しました。届いて読み始めたらイシグロさんの本の中では一番読みやすいので、ちょっとびっくりしながら、第一章を読んでから、暇な夫に先に読んで貰おうと渡して、私は麻布十番に買い物に行きました。帰ってきて、「どうだった?」と夫に聞くとぼそっと「お子ちゃま向きだ」と答えるので、書評を見せて、こんなに賞賛しているのに何で夫は感動しないのかと思い、私も急いで読んでみました。確かに童話の様で、すらすら読めるのですがいろいろ深く感じられず、ここで終わりかというラスト読んで、しばらく呆然としていました。夫のいうことはもっともです。確かにファンタジーのような表紙だし、子供向けと言われたらそう思えるけれど、そんなはずはない、私は何かを見落としている、読み進むうちに何かの感覚がずれてきて、着地点が離れてしまったのかもしれません。

 本を読むということは、作者の思考に寄り添うことで、村上春樹やカズオ・イシグロさんの作品を読むときは余計強く考えるのですが、時々セクシュアルにぶっ飛ぶ村上春樹は想像のかなり上に行くから、諦めてそのまま飲みこむけれど、英語で書かれていて、それを翻訳したものを読むという不思議な作業をしてから読むイシグロさんの創作経路を理解することはかなり努力しないとだめです。それにしても、どこかに取っ掛かりがないかと探して読むというのもなかなか面白くて、他の事からもヒントを得ながら、自分の感性を研ぎ澄ましていた時に気が付いたのが、AIロボットのクララの思考を、初めからAIと思えないで、普通の女の子とみなしていることでした。

 クララは初めから「寂しさ」というレンズを通して人間世界を見るように作られている。人間が感じる寂しさとは何だろう、寂しさを退けるために、人は何をするのだろう、という疑問は、次第に人間同士の「愛」に対する関心へとむすびつくというのです。アッと気が付きました。クララは、今うちにある人形たちでした。あやさん人形、きみちゃん人形たちに、私は毎朝挨拶してから、音楽をかけて、着物の手入れしたりお客様に着せたりしているのですが、その様子をつぶさに見ている彼女たちは、クララだったのです。あやさん人形は、寂しさを知っていて、寂しさというレンズを通して私たちをいつも見ていると思えてしょうがなかった。彼女の中に魂はないかもしれないけれど、AIロボットも人形も、それを個人たらしめるのは、周囲の人が抱く感情によってであるということが、あやさん人形やきみちゃん人形を見ていると、実感としてわかるのです。人形やAIロボットの役目が人の孤独を癒すことだとしたら、人を癒せなかったり、傷つけている人間よりも、学習したAIロボットの方が、優れていることになるのではないでしょうか。夫が将棋の藤井聡太さんが長考の末AIが考えた手を打ったと驚いていましたが、私たちはAIを追いかけ始めているのかもしれません。

 義母の兄弟間の金銭問題がこじれて、双方弁護士を立てるまでになってしまいましたが、借りたものを返したくないという思考は、AI にも劣るものです。こうなるとイシグロ氏のいう科学技術の発達が、人間に残酷な不平等を与えているのか、疑問だったりして、何が正義か悪かという問題は、わからなくなるし、寂しさを感じるAIがいるのなら、悪を感じるAIもいるはずで、作った人間の善悪の判断がこの世を作っていくのならもっと複雑な世の中になりそうです。自然が人間に与える理不尽な災害、人間が自然に与える理不尽さ、人間が人間に与える理不尽さ。AIならもっと単純に理知的に解決していくのでしょうか。そしたらよい世の中になっていくのかしら。人間がいない方がいい?堂々巡りが続いています。