野の古典

 かなり前に新聞の書評を見て興味をそそられ、図書館に予約していた「野の古典」という本を、やっと借りることができました。高校の国語の先生で、宝生流の能楽師の安田登さんという方が書かれたユニークで面白い本なのですが、前書きならぬ前口上が「知り合いのお嬢さんが高校の行事で能を見に行き、帰って来て言った言葉が”もう一生見に行きたくない”で、ショックだった」というのです。まあ、夫が知り合いに切符を貰って、能を見に行ってきた感想が同じだったし、高校の行事で行った生徒の95%がそういうでしょうと、作者も達観して言っていますが、超少数派の5パーセントの私は、時々眠くなるけれど、能が好きです。

 人気のない能がなぜ650年も上演され続けているのかというと、能には「今のわたし」を作るために捨ててきてしまった、様々な過去を鎮魂する力があるからだそうです。江戸時代くらいまでは、捨ててしまった過去は放っておくと怨霊になると考えられていました。その怨霊が暴れ出すと、「なぜあの立派な人があんなことを」と理解に苦しむことをしてしまうことがある。しかし能を見ている間に忘れ去っていた過去が思い出され、その「残念(のこったねん)」の想いを聞くことによって、それは昇華されるのだそうです。のこった念の想いを聞く、それは多分今まで、私がやって来たことで、着物やお人形に対する気持ちや、そして今までたくさんの外国人に着物を着ていただいて過ごした日々の記憶です。

 特段につらいことや、いやなことがあるわけではないのだけれど、なんとなくやる気が失せてしまう、これを引き起こすのは「ケガレ」であると日本では考えられてきました。「ケ(褻)」とは日常生活を生きて行く力の事なのですが、これが「カレ」てしまって自分から離れ、やる気がなくなってしまうことをケガレと言うのだそうです。昔の人は、遊離してしまった「ケ」を取り戻すために、お祓いをしたり、お祭りをしたりして「ハレ(非日常)」の時間と空間を作りだしましたが、ハレの本来あるべき非日常が日常化してしまった今、「ケガレ」を祓うことは難しくなりました。

 そんな時役立ったのが、古典でした。古典は昔の物語だし、古典に描かれる土地は、同じ土地でも今のそことは同じではありません。むろん時間も違います。古典に描かれる全く違う世界の物語に接することによって、異質の世界、異次元への精神の飛翔をもたらしてくれるのです。それは、祭りや都市の祝祭空間ほどの派手さはないけれど、私達の心にとっては、圧倒的な「ハレ」の体験であり、静かな、しかし全く異質なハレの体験によって、「ケガレ」は確かに祓われるのです。

 

 これを読んで思ったのが、ハレの日に着物を着るということです。日常から非日常に移るために、着物は重要なツールなのです。実は幼稚園の入園式に着物を着たいという若いお母様に、黄色のあでやかな付け下げをお貸ししたのですが、お天気も良かったので着た姿を拝見しに、そっと幼稚園に伺ったのです。コロナ禍でなければ、もっと賑やかに家族が集ったのでしょうが、時短で密にならないようみんなマスクして、静かな入園式が行われていたようでした。塀の外からそっと覗いていたら、出入り口に鮮やかな黄色の着物姿が見えて、ドキドキしながら出てくるのを待っていた時、思わず好きだった若山牧水の短歌を思い出しました。「春の日は孔雀に照りて人に照りて 彩羽あや袖鏡に入るも」寂しさを秘めた短歌が多い牧水にしては華麗なもので、ここに孔雀がいるわけではないけれど、コロナ禍の中でも入園式が出来て、マスクをしているけれど輝くような黄色の着物を着て佇む若いお母さんの姿を見ていて、着物の持つ力と意味を私はつくづく感じていました。