楽しんで着る着物

 ヤンママのママ友が午前中に幼稚園の入園式に着た黄色の訪問着を返しに来るというので、彼女が好きそうな、うちにある地味目の着物とレトロな帯をずらっと並べておきました。近所に住む夫のゴルフ仲間の奥様から頂いた百枚近くの中には、小料理屋を経営していた奥様のお母様のものが多くあって、地味だけれどちょっと粋で個性的なのですが、外国人のゲストや明るい色が好きなヤンママの好みではなくて、こうやって並べるのは初めてのことです。下のお子さんの薬を取りに行き、上のお子さんのお迎えに行く間の時間に急いで現れたママは、入園式に着た鮮やかな山吹色の訪問着が春の日差しにとてもよく映えて、道行く人にもずいぶん褒められたと嬉しそうに話してくれ、久しぶりに着物を着たというのに、二重太鼓も綺麗に締められていて素敵だったと言うと「ほんとですかあ」と喜んでいました。帯締めがちょっと違って結んであったのが気になっていて聞いてみたら、適当に結んじゃって~とこともなげに言うので、このママは着物を家族が着ている家庭に育ち、普通に着たり着せてもらったりして来たんだと気が付きました。最近はなかなかこういうタイプはいないし、着られないから習わなくちゃと思ったり、面倒くさいから着るのはやめようとなってしまうのです。

 並べてある着物に気が付いたママは、次々手に取って「可愛い~」を連発しています。どこが可愛いのか正直私にはわからなかったのですが、小柄でショートカットの眼鏡美人のママが羽織ると、良く似合って可愛いのです。着物は着て見なければわからないと、二人で言い合いながら、今まで誰も手に取ったことがない着物たちが次々に羽織られていくのは本当に壮観で、これ着て川越歩きたい!とか、やはり地味好みの妹さんに写メ送っていいですか?とか、テンションは上がりっぱなしで、お迎えに行く時間がくると、名残惜しそうに帰って行きました。

 着付け教室通って資格取った私たちは、着付けの細かいところに目が行ってしまうことが多いのですが、そんなことなど意に介さず、着物が好きで着ることに喜びを感じるという当たり前の事を忘れてしまっていることを反省しました。昼過ぎに何気なく随分前に買った「きもの草子」という法政大学総長の田中優子さんの本を手に取って読んでいたら、この方も家族が着物を着ていて、一緒に住んでいたおばあちゃんの影響で襟を細くゆったり着るのが好きで、大学にも着物で出勤するのだそうです。15年くらい前に書かれた本なのですが、その中のコラムに、あるお正月のテレビ番組を見ていたら、ずらりと色々な年代の女性が着物を着て座っているのに、皆全く同じ着付けで異様だったというのです。テレビ局に派遣された着付け師にとっては、誰が着ようと寸分たがわず同じに着せられれば、それは技術的勝利ということになるし、実際私も着付けを習っていた頃は、着物着て並んでいる方々を見れば、顔も見ずに衿が一律になっているか、きちんと教科書通りに着付けているかのチェックをしていたし、街で着物姿の方とすれ違うと後で振り返って帯結びを見たり、いやらしいことをしていたのです。でもコロナ禍の中でマスクして着物を着せて、最後に写メ撮る時マスクを取ってもらうと、こんな顔していらしたんだ、綺麗!とびっくりするし、着物姿の雰囲気が全く違うことに気が付きました。顔が違ったら着付けも変えなければならない、というかその方をより美しくするには何がベストかということを考えなければならなかったのです。自分が着せたという意識は必要なく、着る方の希望や意志や、着物の性格をよく知って、それに沿うことが一番大事だということは、外国人に着物を着ていただいて一番痛切に感じたことです。

 着物を着た経験のあるタイの女医さんがゲストで来た時、少し小さめの長襦袢を着せたので襟の出方が細く縦長になり、大きな花模様の青磁色の訪問着に合わなかったと悔やんでいたのですが、目の大きな綺麗な彼女は小道具の刀がとても気に入って、夫の指導のもと、緋牡丹お竜のポーズをして写メを撮っているのを見ていて、これは藤純子の衿だと気が付きました。そして彼女はこの着方が気に入っている…日本人の着付けではまずありえない事ですが、日本への関心が強い外国人も多いし、三船敏郎の用心棒のまねしたアメリカ人が居たり、日本舞踊習っていたフィンランド人も居たりして、彼らは着物を愛していて、何よりも生き生きしていたのです。

 今うちに来ている若いママたちは、個性豊かで、茶道もきちんとできるし、何よりも自分のポリシーをきちんと持っているから、顔がはっきりしているのですが、この沢山の地味粋な着物を着た姿を早く見せてもらえる時が来ることを祈っています。義母のデイサービスは感染が広がらず、来週から再開されます。ほっとしていますが、油断はできません。より一層、気を付けて暮らしましょう。