イサム・ノグチ Way of Discovery

 台風の影響で雨が降るという天気予報だったけれど、何とかふらずに天気も持ちそうな昨日の日曜日、私は午後から久しぶりに上野へでかけました。このところ日曜日は調布へ行ったりしているので、いつも留守番の夫の「コロナにうつるなよ!」という声に送られて上野公園に着きましたが、今までと違ってやたら塀に囲まれたところがあったりして、ここには前には何があったのか思い出せないし、今そこで何をしているのかも分からず、今までとはかなり違う雰囲気なのです。ベビーカーを押した家族連れ、手をつないだカップル、年配の方も多いのですが、お店も出ていないし、パフォーマーもいないし、みんなマスクしていて、やはり出歩くのが憚られる雰囲気でした。

 都美術館でやっているイサムノグチ展の一時から一時半までのチケットをネットで予約して、スマホのQRコードを係員に見せ、マイカードで年齢を確認してもらって中に入りましたが、あらゆることが今までとは違います。限られた人数で三つのフロアを見るのですが、二か所は写真撮影OKで、有名な沢山の明かりをスマホで写しながら、同じ展示を見ていた息子の心象風景を考えていました。

 20世紀を代表する芸術家のイサムノグチは、彫刻のみならず舞台美術やプロダクトデザインなど様々な分野で足跡を残しましたが、日米のハーフということでのアイデンティティの葛藤に苦しんだ彼に示唆を与え続けたのが、日本の伝統や文化の諸相で、例えば京の枯山水の庭園や、茶の湯の作法から、彫刻の在り方を看取することができたそうです。「人生の意味そのものが曖昧で混沌とするとき、いかに秩序が必要か。僕は特に彫刻を秩序の美術ー空間を調和させ、人間的にするものーと考えている」

 ー竹ひごが形作る立体から和紙を通じて広がる光の効果に、太陽や月のような存在を思い重ね「光の彫刻」だとし、吊るされた明かりの間を通り抜けその存在に包まれる。光(light)の彫刻は、軽い(light)彫刻でもある。空間を変化させながら、あくまでも軽やかだー岐阜提灯との出会いから、この「あかり」という作品群が生まれたと知った時、七月のお盆に沢山並べているうちの仏間の光景を思い浮かべました。うちの十個近くあるお盆提灯を並べて明かりをともすと本当に圧巻なのですが、それと美術館に飾られていた150灯もの大小様々の「あかり」が同じ提灯だという実感がないのはなぜかと思ったら、多分うちのは限られた場所で限られた人しか見ないからかと気が付きました。勿論お盆にいらっしゃるご先祖様は別ですが、そうなると個人の所有している着物も、ずっとしまわれて人の目につかず、綺麗とも言われなかったら何か違うのではないかという気がしてきていました。

 ノグチさんが、彫刻は高くて買えないけれど、スタンドのような「あかり」ならば買ってもらえると言っていたインタビューが会場で流されていましたが、この展覧会の題名が「イサムノグチ 発見の旅」となっていて、彼は世界中を旅した人生の中で、日本での出会いと発見が、刺激となり続けたのです。外国人で日本文化を極めようとしている方はたくさんいるけれど、ノグチさんは自分の中の日本人とアメリカ人という血の混じりに葛藤し、悩んだ果ての気づきだという所が、彼の芸術のキーポイントだとしたら、自分が自分であることの探求を続けて、自分を発見することがいかに大切なのかと思います。でも、そこまで自分の根源を追求する人も少ない。息子が今まで自分をつかみきれず、勉強にも仕事にも没頭しきれないのは何でだろうと思っていたのですが、学生時代ニューヨークへ行って、ヒップホップをやったらしく、クラブで踊ったりどこかでパフォーマンスをしたことが、彼にとって心から吹っ切れた事だったようで、私たちには言いませんがその時の感覚を一番大事にしているようです。

 芸術家でもなく、パフォーマーでもないけれど、人間が生きて行く上で大事なのは自分の中の道を発見することだとしたら、ノグチさんの生きてきた道や作品を追体験することで自分が見えてくることは素晴らしいし、それが何かわからなくても、広がるものがあるのでしょう。

 ノグチさんが日本文化から見出した、この新たな彫刻の方向性に分け入っていくのが「かろみの世界」で、平たい金属の板を折り曲げ、切り抜いたり貼りあわせたりして、何かを象徴する形を作るという日本の折り紙を着想の一つにした金属連作や、人の手が加えられつつ、巨石のありのままの存在感が見飽きない石の彫刻は、石の本質と空間の在り方により深く向き合った彼が、命を鑑賞するように、自然が、木や石がどのように一体になっているかを考えて作ったものです。 

 今は世界がカオスで経済も流通もストップしている、でも宇宙は意図的にカオスを創り出している側面もあるとしたら、混沌というプロセスを経てからでないと秩序のある美しい世界は創造できないのかもしれない、これまでの世界の枠組みが根こそぎ解体されていくからこそ、これからの時代に合った新しい価値がどんどん生まれてくる。価値を創造する側に立たなければなりません。ひっくり返った視点で世界を認識し、堂々としたまなざしで世界を見る。

 着物に関しても、きちんと着ることが出来ることを主体に、若い方に覚えてもらっていますが、人間主体でなく着物主体で考えていくことを考えた方がいいと、ノグチさんの作品を見て思い始めています。個人が着物を着て町を歩く、生活するということは、今の時代、難しくなっていて、ヤンママたちにしても熱心に着付けを覚えて、好きな着物を着ることができても、この梅雨空や制限された生活の中では、自分が着物を着る意味というものが考えにくくなっていることを私は最近感じています。提灯から「あかり」へ、折り紙から金属板の造形へ、石の本質と空間の在り方の考察、ノグチさんの思考経路は何を教えてくれているのか。花火大会がなければ、若者は浴衣を着て群れることもできない、だから浴衣を着ないというのではなく、浴衣を本当に着たい人は今度はマニアックに着てみるために、何かを買うのかもしれない。新しい価値は、感性をあげ切った人が生み出すのでしょう。やることが沢山あると、イサムノグチ展を見て、痛烈に感じています。