彷徨と 咆哮

 私の高校の卒業文集の題名が彷徨(ほうこう)で、あてもなくさまようことという意味だったのですが、それから私は文字通りあてもなくさまよって青春を過ごしました。近くに住む従兄に、何で若いのにもっと遊んで暮らさないの?と呆れられたこともあったのですが、訳のわからない焦燥と何かに対する渇望、自分が何を求めているのかわからないジレンマで、それこそあちこち彷徨していたのです。26歳で自営業の夫と結婚してからは、子育て、仕事の手伝い、舅姑との同居、病気、母の介護に追われているうち、あっという間に40年が過ぎ、彷徨もいつしか終わりを告げていました。

 このところ横浜のアイスショーをずっと見ていてましたが、ほぼ日本人の若手スケーターが出演しているので、見ていた夫がスケートの発表会みたいだと酷評していました。でもラストに滑った羽生選手の「マスカレード」が素晴らしかったのだけれど、内面の苦しみがあからさまに現れていて、見ていてつらいとあるファンのブログに書いてありました。確かに、ジャッジにはどんなに技術を尽くして滑っても全く無視され、ひどい点数を付けられたりして、絶望感に襲われたりしているし、またコロナ禍で海外に戻れず、一人で練習していると、真っ暗な闇に堕ちてしまう感覚になることもあるようです。でも、芸術を目指す人たちは皆絶望や挫折の中から優れた作品を生みだすし、エヴァンゲリオンの庵野監督ではないけれど、喪失や苦しみからいかに抜け出すかという命題は一生ついて回るなら、まだ若い羽生選手はこれからも苦難は続き、そして新たな世界観を得るのだろうと思いながら、今日の千秋楽の演技を見ていました。ミスなく素晴らしい演技ですが何回も見ているので、ここでこう滑ると予測してみていたら、ラストに入る直前、突然彼の顔が大きくゆがみ、そして咆哮して、絶叫して最後のスピンをし、いつもならリンクにたたきつける白い手袋を天井に向かって放り投げたのです。わあ、そっちへ来たか!彼の発想と気持ちは、私たちの斜め上を行っているのでした。

 四回転ジャンプが何本も飛べればいい、ノーミスで演技したい、みんなが笑顔になれるように楽しく滑りたい、良い点数がとりたい・・そういうモチベーションを持つ時期を過ぎた羽生選手は、自分で振り付け、自分で考え、自分を追い込みながら誰も見たことのない理想のスケートを追い求めている、その一つの答えが、苦しい自分の気持ちを吐き出す咆哮だったのです。魂の咆哮。そんなことを演技中にしていいのかと、批判する人もいるでしょう。でも、先行きの全く見えないこの世の中で、既成の世界はくずれさり、頼れるのは自分の技術と感性と気持ちと愛情だけなら、人を苦しめ精神の核を破壊しようとする鬼たちに取り込まれないように咆哮してしまう、その正直さのみが救いなのかもしれません。自分の気持ちに嘘をついていたら、人の心に深く突き刺さるものは表現できない。とうとう、リンクで咆哮してしまった羽生選手はあらたな次元に突入していきました。

 スケートに夢中になっていて、返却期限が過ぎてしまった村上春樹の「村上春樹翻訳全仕事」という本をおとといから必死で読んでいたのですがこれが面白く、忘れないようパソコンに打ち込みました。そして自分の知識を増やしたり感性を鋭く磨くということは、自分でやるしかないということを、改めて感じています。「翻訳というのは、一語一語を手で拾い上げていく”究極の精読”で、そういう地道で丁寧な手仕事が人に影響を及ぼさない訳がない。自分とは全然違う文体を持つ作家の文章を訳すと実に様々な発見があるし、自分の文体も豊かになっていく」というのです。「個人の文体に自分の体を突っ込んで、自分が向こうに入っていって、納得し、その世界の内側をじっくり眺めていると、とても楽しいし役に立つ」なんでもそうだなと思います。自分が心底好きなものを突き詰めている時が一番幸せです。それがなかなかうまくいかなかったり沈滞している時の状態は、自分が一番よくわかるし、歯がゆいし、どうにかして出口を見つけたいと焦る。

 私には翻訳できるだけの英語力もないし、能力もないけれど、これから何かをしていくという作業に一番大切なのは、追求して行くために色々な器の中に自分を入れてみることのような気がしています。「誰かの靴を履いてみる」Put yourself in someone's shoes.何かで読んでとても気になった言葉なのだけれど、今一つピンと来ませんでした。でも、履いてみて合わなくて痛かったりするという感覚が生きていく上にはとても必要で、自分のサイズの靴だけを履き、違和感も痛みも感じないでずっと過ごしていると、今のこのような異常事態をいかに脱して自分の新しい世界を作っていくかというモチベーションがもてないのではないかと思うのです。。

 心理学においてエンパシー(共感)とシンパシー(同情)の違いは、エンパシーは相手の立場に立って、その人が今どんな風に感じているのかを、あたかもその人自身であるかのように体験する能力だそうですが、これこそ村上さんが翻訳をするときの姿勢そのものなのです。同化する、憑依する、そこまで行ってしまうと大変だし、物凄い体力が必要だけれど、私たちはそういうことが体現できる羽生選手を見て、唯感動し、力を貰うし、村上さんの文章を読むと、こうやって地道に自分のやりたいことを深めていけばいいのだと納得するのです。

 鬼滅の刃の第三巻のタイトルがふと心に浮かびました。「己を鼓舞せよ」 苦しみを突き抜けなければ、浄化された世界は訪れないのです。